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そこにシビれる!あこがれるゥ!?西郷どんも崇拝した島津義弘がマジ卍なんですけど!?

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その生き様を西郷隆盛も崇拝した薩摩男児のあるべき理想として語り継がれる武将がいる。その武将の名は、島津義弘(しまづよしひろ)。鎌倉以来700年続く名門・島津家の中で、随一の軍略を持つ男である。

戦国史上、最も過酷な戦いと言われる朝鮮出兵において伝説的勝利を収めた比類なき武人。そして天下分け目の関ヶ原では、東軍最強軍団を突破!あの家康を恐怖に陥れたまさに戦いの申し子だった。戦国時代において、あらゆる猛将たちが尊敬したという島津義弘。その強さの裏に隠された凄まじき人生を解き明かす。

 犠牲

天分4年、島津義弘は九州南端を治める島津家の次男としてこの世に生を受けた。時は戦国黎明期、九州には多くの戦国大名がひしめき合い当時、島津家は薩摩の一弱小勢力でしかなかった。だが義弘には、後に島津四兄弟と呼ばれる優秀な兄や弟がいた。兄弟力を合わせて領土を広げ、いずれは南九州を平定することになる。

島津の野望は、祖父・忠良からこんな言葉と共に叩き込まれた。

「兄弟それぞれが生まれ持った役割を果たすのだ。さすれば島津家は安泰となろう」

次男・義弘には当主である兄・義久に変わって戦場で戦う軍司令官としての役割が求められた。20歳の初陣より、常に先陣に立ち獅子奮迅の活躍をし、いつ命を失ってもおかしくない激しい戦に身を投じていく。

弱小の島津家がいかにして巨大勢力に勝つのか?それが義弘に突きつけられた。まず義弘は新たな武器に目をつけた。それは、種子島に伝来したばかりの鉄砲。日本で初めて戦に鉄砲を用いた島津家。初陣でこれを見た義弘はその後、兵士全員に鉄砲を装備させ積極的に導入、狙いを外さないように至近距離で撃ち、すぐさま刀で斬りかかれと命じた。義弘の超攻撃型部隊は、薩摩統一の足掛かりを作った。さらに義弘は、独自の戦術を編み出し敵を圧倒する。

その中の1つ「穿ち抜け(うがちぬけ)」。縦に隊列を組み一直線に突撃、一挙に相手の大将の首だけを狙うのだ。この戦法、一点突破の破壊力がある反面、敵の攻撃が先頭部隊に集中しやすい犠牲覚悟の非情の戦法でもあった。一番目が倒れても、二番目が進む。二番目が倒れても三番目が進むという力ずくの戦いだった。

凄まじい軍略を持って義弘は隣国の大隅、続いて日向を落とし、20年の内に南九州統一を成し遂げて見せた。戦の度に多くの家来が屍と化す義弘の部隊、それでも義弘に仕えたいという者たちが後を絶たなかったという。

その訳は人柄にあった。戦場で家来が大怪我を負えば、自ら傷の手当てを行い、「生きて故郷へ帰れ」と励ました。家来に子供が生まれた時は、駆けつけて「子は宝なり」と共に喜ぶ。苦楽を分かち合う、情に厚い主を見て家来たちは思う「義弘さまのためなら命など惜しくない」。

だが天正6年そんな義弘に最大の試練がやってくる。南九州を手中にした島津に、北九州は豊後の戦国大名・大友宗麟が立ちはだかったのだ。大友は室町幕府より、九州の統治者として認められた名門中の名門。六カ国もの守護職を兼ね、およそ150万石もの所領を持つ大大名であった。

その大友が総力を上げ、島津を叩こうと進軍。北か南か九州の覇者を決める高城合戦が勃発した。6万とも言われる大友勢に対し、兄弟の総力を結集しても5万に満たない島津勢。義弘にとってかつてない窮地だった。

「今までのやり方では、勝つことはできない」

悩みぬいた末、義弘はある驚きの秘策を決行する。それは、大将である自分が囮となって敵を罠に嵌めるという決死の作戦だった。11月12日、義弘は小部隊を率いて出撃。なんと敵の大軍のど真ん中に突っ込んだ。果敢に攻撃を仕掛けるも多勢に無勢、敵の猛攻を受けて撤退。するとこれを見た大友勢は、この時とばかりに追撃を開始。

そして、大友の軍勢が義弘に襲いかかろうとしたその時、隠れていた伏兵部隊が出現!全方向から大友勢に奇襲をかけたのだ。これこそが義弘が生み出した戦術「釣り野伏せ」だった。釣り出すというのは、誘い込むという意味で、誘い込むようにして敵を窮地に追い詰める作戦。釣り出すタイミングが敵に知られては意味がないし、味方をあまり危険にさらして大きな犠牲を出してもいけない。タイミングを計ることに長けていないとできない、誰にでもできる戦術ではないのである。

釣り野伏せを成功させ、大友を見事撃退!義弘は破竹の勢いで九州をほぼ掌握し、島津家始まって以来の最大版図を築き上げた。この時44歳、島津義弘は、勇武英略の将としてその名を轟かせることになる。

しかしその後、大友宗麟に援軍を求められた秀吉が25万もの大軍を九州に派遣。ついに島津家は敗北してしまう。当初、島津家の領土は薩摩一国のみという厳しい処遇が決まっていた。だが、義弘は籠城して徹底抗戦する。結果、兵糧不足に陥った秀吉が妥協し、大隅と日向の一部は島津家に戻された。

鬼島津

天正15年、島津義弘は豊臣家に臣従することになった。当主である兄の代わりに京都に滞在、秀吉の指示を本国に伝えるという役目を担うことになる。だが、上洛してみると義弘は豊臣政権の強大さに驚いた。徳川、毛利、上杉など名だたる大大名たちがひれ伏し、もはや秀吉に逆らう者はいない。

さらに大名たちは、重い賦役を背負わされていた。

  • 材木などの資源の提供
  • 石高に合わせた軍役の義務
  • 城普請の労役
  • 大名と一族の妻子を人質に出す
  • 領内に豊臣直轄地を儲ける

秀吉の要請に応えなければ、改易という処分も珍しいことではなかったのだ。島津が生き残っていくためには、豊臣のために貢献しなければならない。しかし、義弘が秀吉の意向を本国へ伝えるも「お前は豊臣の人間になったのか」と本国薩摩ではこれに反発。兄や重臣たちの理解を得ることはできない。

苦悩する義弘に、秀吉の側近・石田三成が追い討ちをかける。「島津は関白様のためになることは何一つしない。このままなら島津の滅亡は間近だ」。本国から疎んじられ、三成からは責められる。義弘は孤立無援に陥る。

そんな時、大事件が起きる。文禄元年、秀吉が大陸進出という途方もない野望を抱き、朝鮮への出兵が要請されたのだ。文禄・慶長の役である。秀吉は、加藤清正、福島正則、黒田親子など日本中の名だたる武将たちを結集。義弘にも出陣の命令が下される。それは起死回生のチャンスだった。島津家のため、命に代えても成し遂げると誓う義弘。だが待っていたのは想像を絶する状況だった。

マイナス十数度の極寒で凍死者が続出、さらに食糧不足で餓死寸前にまで窮乏し、日本軍は敗退に次ぐ敗退を続けたのだ。兵の士気をつなぎ止めるため、義弘は共に暖をとり励まし続けた。下級武士たちと同じものを食べ、厳しい陣中暮らしを凌いだのだ。いつ終わるとも知れぬ過酷な状況が7年続いた頃、遂に義弘に最大の好機にして最大の試練が訪れる。

義弘が守る朝鮮半島南部・泗川の地に明・朝鮮連合軍が押し寄せたのだ。そこは敗退を重ねる日本軍にとって渡すわけにはいかない最後の要衝地であった。しかも、連合軍はおよそ20万の大軍、対する義弘の軍勢はわずか7000。(諸説あります。最近の研究では数万と5千人じゃないかと言われている。それでも6,7倍の敵と対したことになる)

しかし、義弘は燃えた。そして武功を立てるため、なんと援軍を断わるという途方もない道を選ぶ(援軍を断った理由は、援軍には豊臣政権の目付けが帯同し、采配権がその目付に奪われてしまうのを嫌ったためと考えられている)。しかし、常識ではとても敵わない。さらに島津が今まで行ってきた戦術が通用しない。まさに人生最大の窮地だった。

義弘は少ない兵力を一箇所に集中させるため、4つの城のうち2つを捨てた。防御の固い泗川新城に引きつけて戦おうという戦略だった。前線の城にいた部隊は、あっという間に壊滅。勢いに乗った連合軍が泗川新城に迫る。誰もが負けると思ったその時、義弘が逆転の秘策を放った。

敵の陣中に火薬庫があることをつかんだ義弘は、自分の軍勢から3人ほどを順番にそこへ走らせ放火させたのだ。火薬が爆発し混乱する連合軍を見た義弘は、号令をかける。勢いづいた島津兵は強力無比だった。鉄砲隊で猛烈な射撃を浴びせると義弘の部隊は城から打って出た。連合軍は烏合の衆の成り果て敗北する。

島津側の記録によればこの日の戦死者は、連合軍側3万8717名、島津側はわずか2名。前代未聞の勝利であった。この戦いでの伝説的武勇は、朝鮮半島さらに遠く明の地にも伝わり義弘はこう呼ばれるようになる。島津義弘は鬼だ!鬼島津なのだと。

帰国後、島津家には5万石の知行が加増された。福島、加藤でさえ恩賞が貰えない中、特例とも言える措置だった。そんな義弘の心の支えとなったのは妻だった。戦時下に義弘は、妻に手紙を多数出していたという。

島津退き口

慶長4年、徳川家康率いる東軍に対し石田三成が西軍を結成。全国の武将が集った天下分け目の合戦が迫ろうとしていた。東軍か西軍か、当初、家康と親交があった義弘は東軍につくつもりだった。だが事態は急変する。大阪で挙兵した三成が、東軍諸将の妻子を人質に取り始めたのだ。

当時大阪には、兄・義久の娘にして息子の妻であった亀寿が滞在。島津の後継者・亀寿に危険が及ぶことを恐れ、義弘は西軍につく決断を下す。義弘の参戦を聞きつけ、遠く薩摩から家来たちが駆けつけた。朝鮮で義弘と共に戦い強者として知られた甥の島津豊久も合流。義弘は1500の軍勢を結成し一大決戦に挑むことになる。

戦局はほぼ互角、厳しい戦を前に義弘は誓う。「何としてもこの戦を切り抜け、亀寿の命を守ってみせる」しかし、義弘にとって予想外の展開が待ち受けていた。

慶長5年9月15日関ヶ原の戦いが勃発。義弘は朝鮮出兵での武勇を見込まれ、三成の側面を守る二番備えとなった。西軍の先鋒が勢いに乗れば、それを後押しする。いざとなれば三成を守る重要な役割であった。開戦当初、西軍の主力・宇喜多秀家が活躍し、福島正則を圧倒。三成隊の先鋒・島左近もまた決死の覚悟で黒田長政相手に奮闘する。戦局は西軍の優勢だった。

正午過ぎ、いよいよ島津の出陣かと思った矢先、事態が激変する。家康と通じていた西軍の小早川秀秋が裏切り、1万を超える大軍が西軍を襲ったのだ。これによって主力の宇喜多隊は散り散りに崩壊、指揮を取っていた三成までもが敗走を余儀なくされる。そして最後まで戦場に残っていた義弘の部隊だけが、圧倒的大軍の中に取り残されたのだ。義弘は切腹を覚悟した。しかし、甥の豊久が詰め寄る。

「ここは退き、生き延びてください。叔父御が亡くなれば、誰が島津を守れましょう」

義弘は懊悩する。これまでどんな過酷な状況だろうと敵に背を向けたことはない。退くなど島津の誇りが許しはしない。だが、豊久が言う通りここで自分が死ねば、島津家はどうなる?義弘は家臣に訪ねた。

「敵はいずかたが猛勢か」

「東よりの敵が以ての外の猛勢でござる」

「ではその猛勢の中へ掛かり入れよ!」

退くなら島津の退き方がある。島津義弘、一世一代の覚悟であった。この時点で1000名ほどの兵力となっていた義弘。にもかかわらす、猛将・福島正則や徳川四天王・井伊直政の最強部隊に狂気の突撃を始めたのだ。

義弘の狙いは、島津家の存在を周りに確認させて、すごい武力集団だということを明確にすることだった。そうすることで戦う気持ちを奮い立たせ、死んでも悔いはないという心境になれたと考えられている。

死を恐れない薩摩勢の突撃に恐れをなした福島正則は「あれに構うな」と号令。一方、井伊直政ら東軍の猛将が立ち向かうが、決死の島津兵はびくともしない。ついに家康本陣を肉眼で捉える至近距離まで迫った。これに戦慄したのが家康だった。関ヶ原の勝敗は決した。勝利をものにしたはずなのに、薩摩の死兵が本陣に迫ってきたのだ。まさに義弘は、天下人たる家康に島津の凄みを見せつけたのだ。

しかし、これを十分と見た義弘は、今度は進路を変え関ヶ原脱出を図った。井伊直政らはこれを追撃。だが、少しずつ部下が犠牲となり敵を食い止める「捨て奸(すてがまり)」という戦術を取り、義弘は死地から逃れていった。

捨て奸とは、義弘の後ろにいる武将たちが次々と盾になって命懸けの戦いをする。そういう風にして一人、二人と亡くなっていく捨て身の作戦。

大将・義弘のために一分一秒でも時間を稼ぎたい。家来たちは自分の命を捨てていった。殿を務めた甥の豊久は、怒涛の東軍の中に自ら突撃をかけた。7本の槍に貫かれると壮絶な最期を遂げたという。

義弘たちは大阪に向かい、人質となっていた亀寿を取り戻す。その後、船に乗り薩摩までたどり着くことに成功する。この時、生き残っていたのは1000人中、わずか70数人だったと伝わる。この退却劇は、島津退き口として語り継がれ義弘は、戦国史上最も苛烈な苦境を乗り越えた男としてその名を残したのである。

その後の島津家

西軍についた島津家は、改易(家禄・身分・屋敷の没収)される危機を迎える。だが、島津側の釈明によって家督は安泰となった。しかし、義弘本人をどうするのかが焦点となる。そこでは、東軍の武将たちが義弘の弁護や助命嘆願をしたという。福島正則や黒田長政、井伊直政らが家康に助命を乞うたとされる。

そいうい経緯もあり、義弘は形だけの謹慎で許されることになった。島津からの鉄砲傷が元で亡くなった井伊直政は、島津の退き口を見て「比類なき戦い方」だと褒め称え、自分が義弘の助命は請け負うとまで言ったという。