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大ピラミッドの建造期間が判明!?巨石の運び方や労働者たちの暮らしまでわかっちゃった!?

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2013年に発見された世界最古のパピルス。4500年封印されていた大ピラミッド建造に関する新事実が判明!ピラミッド完成までの期間とは?

世界最古のパピルス

 紀元前2500年頃、古王国時代のファラオ・クフ王のために作られた大ピラミッド。底辺230m、高さは147m、積み上げられた石の数は通説で230万個にも及ぶという。しかし、この巨大建造物がどのように建てられてたのかは、未だ解明されていない。

ところが、ギザから200キロ離れた紅海沿岸でピラミッド建造にまつわる記録が発見された。2013年に発見された世界最古のパピルス。これを解読した結果、クフ王に仕えていたメレルという監督官の日誌だと判明した。

四日目の朝、ピラミッドに向かって川を下る。9日目、ピラミッドを出発し川を上って一夜を過ごす。27日目、クフの港を出発しピラミッドへ向かう。

 日誌を辿ると見えてきたピラミッド建造の詳細。この日誌によってピラミッドが完成するまでの期間がわかったという。

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カイロ、エジプト考古学博物館。その一室に4500年前に書かれたパピルスが保管されている。通称「メレルの日誌」と呼ばれるものだ。パピルスは発見時、800以上の断片に分かれていた。それを1つずつ、つなぎ合わせ4年がかりで解読に成功した。

日誌は日付ごとに分かれており、メレルの足跡を詳細に知ることができる。そこには、ギザとトゥーラを何度も行き来している日々が読み取れるという。メレルはトゥーラで何をしていたのだろうか?

ピラミッドからナイル川を挟んで、12キロ離れた場所にその地名が残されている。高さ50メートルはある垂直の断崖が、辺りを囲むように連なっている。ここがトゥーラの石切り場だ。ここの良質な石をピラミッドまで運んだということになる。

ピラミッドには、二種類の石灰岩が使われている。1つは現在、目にすることができるピラミッドに積まれた石灰岩だ。ピラミッドのすぐ側の石切り場から切り出された。そしてもう1つが、トゥーラの石灰岩だ。ここの石を使ってピラミッドの表面を化粧板で全て覆わせていたのだ。つまり、ピラミッドは本来、真っ白い石灰岩で覆われていたことになる。

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大ピラミッドは完成当時、現在のような階段状ではなく、白い化粧板を纏った正四角錐の形をしていた。クフ王の息子、カフラー王のピラミッドの頂上付近には、崩れ落ちなかった化粧板が今も残っている。

ではなぜ、12キロも離れた場所から化粧板となる石灰岩を運び出す必要があったのだろうか?その答えは石の質にあった。トゥーラの石灰岩は固くて質がいいので、外壁に向いているという。古代の人々もピラミッドを強固にするためにこの石を用いたのだろう。

石灰岩の運搬方法

しかし、重機もない時代にこの石をどうやって運んだのか?その謎を解くカギがメレルの日誌が発見された場所にあった。そのワディエル=ジャラフ遺跡では、クフ王の時代に使用された倉庫が28箇所見つかっている。その倉庫の1つに石の運搬方法を知る手がかりが残されている。

それが木で作られた船だ。同じ場所からロープも見つかっている。当時の船は、木材に穴を開けロープを通して固定していたという。メレルは船で物を運ぶ専門家だった。このような船を使い、トゥーラからピラミッドへ石を運んでいたのだろう。

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しかし、ピラミッドのあるギザも石切り場のあるトゥーラもナイル川から離れている。メレルはなぜ船を使うことができたのだろう?実はナイル川は20世紀初頭、上流にダムが完成するまで、毎年夏になるにと増水し氾濫を起こしていた。ピラミッドの側まで緑が広がっているのは、ナイル川の水が来ていた名残なのだ。

さらに驚くべき事実がある。当時、ピラミッド周辺には水が少なくなる時期でも船で移動できるようナイル川と繋がった水路が掘られていたという。それを裏付けるようにメレルの日誌の中に、水路に関する仕事に従事したと記されている。メレルたちはこの水路を使い1年中、石を運搬することができたのだ。

大ピラミッドの建造期間

メレルの日誌には、ピラミッドの建造期間も記されている。古代エジプトでは、2年に一度税金を決めるために牛を数えていた。メレルの日誌には13と牛の表記があり、13回牛を数えた後だと読み取ることができるという。つまり、26年目か27年目を示しているのだ。日誌によればこの時、ピラミッドの外側を覆う化粧板を運んでいる。化粧板の運搬は、建造において最後の工程なのでピラミッドは、およそ27年で完成したことになる。

通説では、ピラミッドは230万個もの石が1段づつ規則正しく積み上げられていると考えられている。しかし、27年で完成させるには2分に1個のペースで巨石を積まなければならない。それはどう考えても不可能だ。ではピラミッドはどうやって作られたのか?

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大回廊と呼ばれるピラミッドで最も広い空間は、長さ47m、天井までの高さは9mにもおよぶ。大回廊の奥には、クフ王のミイラが安置されていたとされる玄室(王の間)がある。ここでは墓石などに用いられる花崗岩が使われている。最も大きい天井の石は、60tにもなる。全ての石が整然と隙間なく積み重ねられている。

しかし、石の積み方が全く違う場所がピラミッドの最新部にあるという。玄室の下に位置する通称・王妃の間だ。これまでの部屋とは違い、石組みの中は大小様々な石が雑然と積み上げられている。

実はピラミッドは、外から見えるところは精製された石をきれいに積み上げている。しかし、内部では石の壁を作りそこに瓦礫を詰め込んでいるのではないかと推測される。この方法なら、27年間でピラミッドを完成させるのも不可能ではない。

さらに石の建造物は、同じ大きさの石を隙間なく積み上げるより、様々な大きさの石を合わせて積む方が建物としての強度が増す。城の石垣に大きさの違う石が使われるのはこのためだ。古代エジプト人は、短い時間で強固な石組みを作るため、この方法を用いてピラミッドを築き上げたのだ。

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さらにピラミッドが短期間で完成した理由が、発掘によってわかってきた。発掘された石に、この石を運んだチームの名前が記されていたのだ。これは仕事を証明するためのサインで、このサインをもとに食糧などの労働の対価が支払われた。ピラミッドの石にはいくつかのチーム名がサインされており、競争するように石を積み上げていたことがわかる。このチームの存在こそが、短期間でピラミッドを建造できた要因があるという。

かつてエジプトを訪れた古代ギリシャの歴史家ヘロドトスは、「クフ王は国民の苦しみも顧みない暴君で、人々を奴隷のように働かせている」と残した。しかし、今回の発見でクフ王は、労働者集団を統制し短期間で大事業を完成させた有能な王だったことが明らかになった。

ワディエル=ジャラフ遺跡

ピラミッド建造の詳細を記したメレルの日誌。しかし、見つかった場所はギザから200キロも離れた紅海の沿岸だった。なぜこの場所でパピルスは発見されたのか?その謎を解く手がかりが出土品にあった。

海岸で船を停泊させるための錨が130個も見つかったのだ。さらに桟橋の痕跡と思われる遺構も発見されている。ここにはクフ王が作られせた世界最古の港があったと思われる。なぜ、こんな場所に港を作らせたかと言うとクフ王は、石灰岩の加工に必要な銅のノミを作るために、シナイ半島の銅鉱山に目をつけ、この港を拠点に銅を調達していたという。

船による輸送のスペシャリストだったメレルは、クフ王の命令で化粧板のほかに銅の調達も行っていたのだ。さらに近年、メレルが暮らしていた場所がピラミッドの側で見つかった。

古代エジプトでは、ナイル川の西側は死者が住む場所であり、墓しか存在しないと考えられていた。しかし、ピラミッド建造に携わった人々の住居があるはずだと、周辺を発掘すると1984年ピラミッドタウンが発見された。

出土品からメレルがどんな暮らしをしていたのか明らかになってきた。パンを焼くツボやパン焼き場などが発掘され、当時すでにパン屋があったと思われる。砂の上で立つように先が尖ったビールを入れるツボも発掘されており、労働者たちがビールを飲んでいたこともわかっている。

これまでピラミッド周辺には、労働者の街と石を運び入れる船着場があるだけだと考えられていた。しかし、実際には巨大な港を持ち、地中海世界と貿易を行う港湾都市が存在していたのだ。

クフ王はピラミッドで使う石を運ばせるために港を造られせた。だが、その港は当初の目的を超え、あらゆる人や物を集めるようになり、国際的なネットークを誕生させたのだ。それはやがて、社会の基盤となりエジプトの繁栄を支えていくことになったのだ。