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大阪万博誘致の裏側!?あのヒット商品は大阪万博なくして存在しなかった!?

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今、大阪で熱を帯びているのは2025年の大阪万博誘致。各地で様々なイベントが開かれ注目を集めている。3月には1970年の大阪万博のシンボル・太陽の塔が48年ぶりに内部公開され、その熱気はますますヒートアップしている。

 2025年の万博開催地が決定するのは、今年の11月。日本の対抗馬は、ロシアとアゼルバイジャンだ。ロシアの候補地・エカテリンブルクは6月に開催するサッカーW杯の開催地。プーチン大統領は、外交の場で頻繁に誘致PRをしている。もう一つの候補地、アゼルバイジャンのバクーは世界有数の油田があり、急速に近代化が進む様子から第2のドバイとして世界が注目。豊富なオイルマネーを使い誘致に動いている。

そして日本は、関係の深いアジアやアフリカの国々に重点を置き、指示獲得に奔走。3国間で激しい誘致合戦が行われている。これほどまでに世界各国が、万博誘致に必死になる理由は莫大な経済効果。

万博の経済効果

1851年に初めて開かれた万国博覧会、万博。会場となったイギリスのロンドンでは、全面ガラス張りのクリスタルパレスが建てられ、5ヶ月で600万人を超える人々が来場した。今の貨幣価値で120億円を超す収入をもたらしたという。

1853年ニューヨーク万博ではエレベーター、1876年フィラデルフィア万博は蒸気機関、1889年パリ万博はエジソンの蓄音機、など万博には常に世界最先端の技術が出展され、開催国には世界中の人々が殺到し大きな経済効果をもたらしている。

中でも1970年の大阪万博では、それまでの歴史を塗り替える6421万人が来場、その経済効果は2兆円とも言われている。大阪はこの万博のおかげで、交通網が整備され一気に先進都市へと変貌を遂げた。

開催地に大きな発展をもたらす万博。だからこそ私たちが知らない所で、世界各国のライバルはもちろん、国内の都市間でも激しい誘致争いが行われている。1970年の大阪万博は日本、関西が発展する起爆剤となった。ただその裏には一筋縄ではいかない男たちの熱いドラマがあった!?

大阪万博の裏側

時は1950年代大阪市役所。

「大阪の再開発は、貿易振興以外にない」

「貿易振興と言いますと?」

「万国博覧会だ!」

男の名前は、中馬馨(ちゅうま かおる)。13代の大阪市長で、当時はまだ助役だった。彼は戦後の動乱からまだ低迷している大阪の発展を願い、万博の大阪開催を実現させようと考えた。ところが…

「中馬さん、万国博覧会というのはいったい…」

「なんだ、そんなことも知らないのか」

当時はまだ、万博自体が広く知られておらず、そもそも国際イベントを大阪で開いた経験もなかった。そこで中馬は、1954年まずは大阪で日本初の国際見本市を開催。さらに…

「失礼します。お呼びでしょうか?」

「まもなく開かれるブリュッセルでの万博を視察してきて欲しい」

1958年国内のどの都市にも先駆けて万博の研究を始めた。計画は、他の都市には漏れないよう極秘で進行。知っているのは、中馬と部下数人だけだった。そして、1963年夢の実現に向け中馬は市長に当選、いよいよ本格的な誘致活動に取り掛かろうとしていた。だが…

「今年開催される東京オリンピックに対して大阪府は万国博開催を目指します」

1964年2月なんと大阪府知事が万博誘致に立候補を表明したのだ。

「どういうことだ?なぜ突然、大阪府が出てくるんだ」

実はその5ヶ月前外務省で…

「外務大臣宛に日本も国際博覧会に関する条約に加盟するよう要請があったそうだ」

「いわゆるBIE(博覧会国際事務局)の会長からか?」

たまたま大阪府の職員がその話を聞いた。それを知った大阪府は、先手必勝とばかりにどこよりも早く手を上げたのだ。中馬にとっては、あまりにも突然の横槍。10年以上温め続けてきた自らの夢を目の前でさらわれようとしている。これを期に、大阪府と大阪市は裏で激しい誘致合戦を繰り広げることになった。

それからおよそ1ヶ月後…中馬が会いに行ったのは、ライバルの大阪府知事だった。中馬はある決意をしていた。

「手を組みませんか?」

「中馬さん、あなた…」

「このまま府と市がいがみ合っていても、万博を逃してしまいます。大切なのは、どちらが主導権を握るかではなく大阪開催を勝ち取ること」

中馬にとって苦渋の決断だった。それでも彼は、大阪で万博を開くには大阪が1つになる方が重要と考えた。こうしてチーム大阪が誕生した。

1964年4月チーム大阪は、政府に万博開催を申請。するとなんと、東京や静岡なども万博誘致に動き出す。オリンピック開催で勢いがある東京をなんとか抑えなくてはならなかった。

そこで中馬と知事の2人は、大阪商工会の会頭に会い東京の経済界への根回しを依頼する。彼は、東京の商工会議所にコンタクトを取り、大阪は東京オリンピックに全面協力することを約束。その代わり万博の大阪開催に協力してもらうという紳士協定を取り付けた。こうして国内の候補地は、大阪でほぼ一本化することに成功する。

ところが大きな問題が残っていた。大阪府が開催を予定していた場所は、高速道路や中央環状線が走る京阪神間の大動脈で、東洋一を誇るニュータウンが建設中。これからの大阪の発展を担うと期待されていた千里だった。一方の大阪市は、南港にある広大な埋め立て地を予定していた。双方譲らず、なかなか候補地は決まらなかったのだ。

悩み抜いた中馬は、ある決断を下す。

「知事、大阪万博の候補地は千里にしましょう」

「大阪市は本当にそれでいいんですか?」

「候補地が千里になったとして、市内から会場へアクセスする交通機関の整備は必須。それは大阪市の発展にも繋がるじゃありませんか」

「中馬さん、ありがとう」

こうして候補地が決まった。大阪市は街の発展を最優先。中馬は、開催地になる名誉を捨て実利をとったのだ。

そして1965年4月。日本政府は大阪での開催を国際事務局に申請。当初は、オーストラリアのメルボルンがライバルとされていたが、事務局の会長は

「アメリカやヨーロッパではなく、極東での開催はそれだけで意義がある。日本は1970年に近代化を迎えるでしょう、この年の国際博開催は大阪で決定いたします」

こうして、あの日本万国博の大阪開催が正式に確定した。大阪への万博誘致に心血を注いだ中馬。市長として大成功を見届けた翌年、現職のまま帰らぬ人となった。

万博が生んだ最新技術誕生の裏側

20世紀最大規模の国家イベント大阪万博。およそ100万坪の広大なエリアに81の国や国際機関が参加、期間中6400万人以上もの人が足を運んだ。かつてない壮大なスケールの国際イベントを成功させるため、ありとあらゆる最先端の技術が導入された。それらは後の日本人の生活を大きく変えることになる。

「博子ちゃんお待たせ」

「もう、遅いやないの東京(あずま きょう)くん」

「ごめん。それにしても大阪は万博誘致で盛り上がってるね」

「万博って開催するとその街が大きく発展すんねん。例えば、あのモノレール。あれは、大阪万博のモノレールがあったから日本で普及してんで」

「さすが万博子(ばん ひろこ)。よく知っているね」

「しかもそのモノレールには当時、日本初の最先端技術が導入されてん」

1960年代後半―。

「これだけの広い会場、どうやって人を移動させるかが大きな問題だな」

「しかも世界中から人が来る技術の見本市、ならば最先端技術を見せつけよう!」

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こうして万博モノレールに採用されたのが、国内初の自動運転システムだった。当初は、安全性に不安があると使用許可が下りなかったが担当者たちの熱意で実現。当時は珍しい人が運転しない技術は話題を呼び、結果入場者の半数を超える3300万人がモノレールを利用したのだった。この万博での成功をきっかけに、モノレールは全国各地に導入されていく。

「ちなみに御堂筋も1970年の大阪万博をきっかけに、南行きの一方通行になったんよ」

「へぇー、あ、自動販売機だ。ちょっとごめん」

自動販売機でUCCの缶コーヒーを買って飲む京。

「その缶コーヒーも万博がきっかけで普及してんで」

「これもそうなんだ」

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今では普通に売っている缶コーヒー。初めて登場したのは万博の前の年、1969年だった。だがコーヒーを缶で飲むのは邪道とされ、まったく売れなかったという。そんな中…

「万博では最低でも2千万人の入場者が来て、パビリオンを見て回るだけでも大変らしいですよ」

「ということはみんな喉が渇くはず!」

「缶コーヒーなら持ち歩きながら飲めるじゃないですか!」

開発したUCCはすぐに人材を集め、パビリオンや飲食店に積極的なセールスを開始。結果、ほとんどのパビリオンで缶コーヒーを販売してくれることになった。夏を迎えると缶コーヒーは売れに売れ大ヒット。翌年には、売上高100億円を突破する看板商品になったのだ。さらに…

「大阪万博では大量の来場者に一定のクオリティの料理をいかにスピーディーに提供するかが課題だな」

「ひとりひとりの注文を受けて料理を作り配膳していては、とてもさばききれません」

大量の食事をどうやって提供するかが重要な課題だった。この問題をクリアすべく担当者が目をつけたのが、ケンタッキーフライドチキン。この大阪万博での出展によってファストフードが日本初上陸。味もさる事ながら、待てずに買えることがウケ、1日で売上280万円を記録する日もあったという。この成功から、アメリカのファストフード店が次々と日本へ。今では私たちに欠かせないものになっている。

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1965年に発売されたシャチハタの「Xスタンパー」。発売当初は売れ行きが伸びず窮地に追い込まれていた。そこでシャチハタが、賭けに出たのが大阪万博だった。シャチハタは、各パビリオンに誰でも自由に押せる記念スタンプを設置。朱肉をつけなくても押せる不思議なスタンプに子供達はもちろん、大人も夢中に。これを楽しみに会場を周り始めたのだ。やがては取り合いになるほど大ヒット!シャチハタの名は全国に広まった。

「あ、電話。(;゚Д゚)!まじで?」

「お母さんがあなたの顔みたいからテレビ電話で話したいって」

「(;゚Д゚)!は、はじめまして東京といいます」

「そういえば、このテレビ電話も万博がきっかけで開発が進んでんで」

1日に何十万人もが会場を訪れると、当然発生するのが迷子。その対策として会場内の迷子センターに設置されたのが、テレビ電話だった。はぐれてしまった親子は、別々の場所にいても互の姿を映像で確認できる。この新たな開発が、今の通信技術の礎となっている。

「京くん、ごめん。もう帰らな。大阪で万博が開かれたらまた会おうね。じゃ」

「大阪でって…確か2025年…7年後!ちょっと待ってよ博子ちゃん」