嘘か本当か分からない話

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古代の独裁者をカウントダウン!?暴君たちにつけられた順位をCheck it out !!

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大量虐殺、政治的操作、殺人…。歴史上最高の支配者として名前を残すためにどんな手でも使う独裁者たち。誰もが知っている名前でも、誰にも知られていない事実を紹介!古代世界一の暴君は一体誰なのか?信じるか信じないかはあなた次第です。

第10位 カリギュラ

猟奇的で気まぐれ、あまりの残忍性から在位4年で殺された。神のような力を示すために、誰よりも極端で凶悪な振る舞いをした。本名はガイウス・ゲルマニクス。カエサルを高祖父に持つローマの名家の出身。

小さな軍靴を意味するカリギュラは、幼少期についたあだ名だ。小さなローマ兵の格好をさせられて、マスコットのような立場で父親と戦地へ趣いた。このあだ名をガイウスは侮辱と捉えていた。そうして心の中に病的な怒りが溜まっていった。

心を乱した要因は他にもある。養父ティベリウス帝に実の家族を殺されたのだ。皇帝が実父を殺害、母親は投獄され追放された後に餓死、兄弟は獄死した。それを指示した皇帝の養子になるという信じられないような事実がある。

カリギュラは拷問や処刑を鑑賞し、みだらな宴会に興じた。姉妹との性的関係も噂されていた。これは全て皇帝になる前の話だ。即位したのは紀元37年、24歳の時で税を廃止し、人々のために剣闘など豪華な余興を催し、当初は人気だった。だがその浪費で国は破綻寸前に陥る。統治1年目だけで4000億円相当を費やした。この年、大病を患ったのを機に彼の誇大妄想が始まったと考えられている。

神殿で雄牛を生贄にする際の話だ。槌で牛を殺すのかと思いきや、振り返って祭司を叩いた。死ぬほどの血を流し倒れている祭司を見て、カリギュラは喜び笑っていたという。

残虐行為は続いていく。コロッセウムでもその異常な一面を見せた。剣闘士の試合に飽きたカリギュラは、衛兵に命じ観戦中の民衆を闘技場に投げ込み猛獣たちのエサにしたのだ。行き過ぎは暴力だけではなかった。ローマ皇帝の顧問に愛馬を任命したという異常な話も残っている。

自らのイメージには過剰にこだわっていた。自身を神だと思っていたカリギュラは、神や女神の格好をして人前に現れたそうだ。神々の彫像の頭部を切り落とし、自身の彫像と取り替えた。これはもはや権力の腐敗だ。恐怖政治が4年も続き、人々の我慢は限界に達する。そして、カリギュラは30回以上も刺されて殺された。あまりにも嫌われていたために、彼の記念碑は元老院によって破壊された。だがその強烈な印象はローマの暴君の1人として残り続けた。

第9位 ネロ

評判の悪い皇帝の1人で、その残忍性はあまりにも有名だ。17歳で皇帝となり治世は54~68年まで続く。ローマ大火の際の愚行は有名だ。彼は市中をうろつき気まぐれに人を殺した。

伯父カリギュラの浪費ぶりを羨み、対抗していたとも言われる。母親は息子の権力を利用しようとした。だがその考えがネロに母親暗殺を実行させた。暗殺計画が1度失敗すると、ネロは母親の寝室に衛兵を送り刺し殺させた。最初の妻も同じような運命を辿る。追放して死なせ、はねた首を新妻に贈ったという。その新妻も、ネロを遊びに興じ過ぎだとたしなめたために、妊娠中に蹴り殺された。その後、気に入った若い男を去勢させ妻に迎えるという新たな試みもなされた。それができるだけの権力を持っていたのだ。ローマ史に描かれる通り、まさに暴君だった。

統治期間中に起きた大火は、かつてない規模でローマ市中の半分が焼け落ちたが、ネロはその焼け跡を自らのものだと主張し、そこに広大な宮殿を建てた。このことが人々の不信感を買った。ネロは大火の罪をキリスト教徒に着せ、彼らを処刑したのだ。さらには、キリスト教徒に火をつけて夕食会の照明にしたというネロの残虐性を伝える有名な逸話が残っている。

誰も逃れられない。元老は鞭打ちで焼き印を押して拷問、気に入った女性の夫は殺させるなど蛮行は終わらない。ネロの浪費は、ローマの財政を破綻寸前に追い込んだ。ネロは元老院の評議で国家の敵とされ、自殺を迫られた。キリスト教徒の迫害など負の遺産を残したネロも元老院の手によって記録から消された。存在していたことすら認めない法律まで出されたのだ。あまりにも残虐で病的だったその倒錯ぶりは、かえって人々の記憶に残った。だから今でも彼は人々に語られるのだ。

第8位 クレオパトラ

ナイル川の美女は、その魅力を武器に王権を握った。だが結果的に守ろうとした王国は滅亡する。当時、エジプト王家では策略や殺人が横行していた。そんな中、弟を殺しファラオの地位を守った彼女は、抜け目がないだけでなく、非常に賢く教養があった。9カ国語を話したとも言われている。数学や幾何学にも明るい博識な女性だった。

クレオパトラと言えばセクシーで魅力的なイメージだが、エジプト王国の富も敵には魅力的なものだった。だがエジプト軍は弱く、ローマには対抗できない。ローマを従わせる必要があったクレオパトラは、ローマで一番の実力者に目をつける。ユリウス・カエサルを誘惑し結ばれたのだ。

4年間の同盟が続き、2人の間には子供も生まれる。だが2人の関係はローマの怒りを買った。そして元老院は紀元前44年にカエサルを暗殺した後、将軍アントニウスを送りエジプトの支配権を主張した。だが彼も彼女に誘惑されてしまう。

エジプトの富を見せつけるためにクレオパトラは、特大の真珠で彼の興味を引いた。30億円相当の価値があったとされる真珠をクレオパトラは、ワイン酢に溶かして飲み干した。ドラマチックで誘惑には最適の演出だ。2人は恋仲になり同盟を結ぶ。だがカエサル同様にこの関係はローマにとっては脅威だった。

政敵オクタウィアヌスが宣戦布告し、紀元前31年アントニウスは敗北、2人は亡命する。敵に囲まれアントニウスは自殺、クレオパトラは勇敢にも同じ道を選ぶ。毒ヘビに自らの体をかませたとも、催眠薬を使ったとも言われる。ローマの実力者たちを誘惑し、彼女は成功した。だが彼女はただの美女ではない、気骨ある賢明な女性であり、周囲の男たちを思うように従わせたことを忘れてはならない。

第7位 ラムセス2世

宣伝が巧みなラムセス2世は、自らの姿を最強の戦士として描かせた。絶頂期のエジプト王朝を統括、紀元前13世紀にその治世は67年も続いた。古代エジプト史で最長の統治期間だ。妻と側室を200人持ち、息子96人、娘60人をもうけた。

多くの人が40歳までに死んだ時代に93歳まで生きたとされる。いかにも独裁者らしく彼は、自らの栄光のために自身の巨大な彫像を数多く建造した。中でも最大のアブ・シンベル神殿には、自らの偉業を大いに反映した。神殿やオベリスク、巨大な記念碑を次々と築いた。

好戦的だったラムセス2世は、過去に失われた領土を奪い返そうとする。その野望は22歳で始まり数々の戦いに勝利した。最大の敵は、トルコとシリア周辺に住んでいた人々、ヒッタイトだった。紀元前1274年に起きたカデシュの戦いが最も有名だ。6000台の戦車が戦場を駆け巡る史上最大のチャリオット戦だった。地中海東岸を巡る抗争は、200年前から続いていた。結果は引き分けとされるが、ラムセスは勝利を主張。戦いに勝ったわけでも、カデシュを攻略したわけでもない。だが彼はエジプトに帰り巨大な戦勝記念碑を建てた。戦いの後、世界最古の平和条約が結ばれる。その複製は国連本部に飾られている。平和の記念碑が評価されることは、ラムセスには皮肉だろう。

第6位 ハンニバル

紀元前3世紀、チュニジアにあった都市国家カルタゴはローマと戦っていた。将軍だったハンニバルの父は、ローマと40年戦ったがついに敗北し、ハンニバルは復讐心に取り憑かれた。自ら軍を率いるようになり、ローマの壊滅を誓った。

その攻撃法は斬新だった。作戦に投入したのは、歩兵9万、騎兵1万2000、そして40頭のゾウだ。ゾウをいかだに乗せてローヌ川を渡り、アルプスを越えてイタリアへ侵攻した。軍を率いた山脈越えは驚異的だった。

最初の2戦でゾウを活用して戦いローマ軍に大勝。世界最強のローマ軍が4分の3も殺された。ローマ側は、最大の兵力9万人を投じて反撃する。次なる戦いは記念碑的なカンネーの戦いだ。

ハンニバルは4000人の兵士を失うがローマが失ったのは最大7万人、史上まれに見る悲惨な戦いだった。ハンニバルはここで歴史に残る優れた作戦を展開、包囲殲滅戦で敵を一斉に挟み撃ちにしたのだ。これにより彼の戦術家としての名声が確固たるもになった。ローマの歴史的な大敗だった。これほどの惨劇は2000年後の第一次世界大戦まで見られない。しかも武器は銃ではない、斬り合いでこれだけの惨状だったのだ。

だが肝心のローマ市街は落とせなかった。戦いには勝っても戦争には負けたのだ。彼は最後は捕らわれるのではなく自殺を選んだ。ハンニバルのカンネーでの勝利の影響は大きく、戦闘力を誇るローマの地位は揺らいだ。だが結果的にローマは組織的な軍隊を強化、ハンニバルの戦術まで取り入れた。今でも世界中の軍がハンニバルの戦法を学んでいるという。

第5位 アッティラ

その名前だけで人々は恐怖を覚えた。この独裁者は兄弟を殺害し、28歳でフン人の統率者となる。5世紀に東ヨーロッパを支配した遊牧民だ。ローマを攻撃することで支配権を拡大、その領土を襲撃し強姦、虐殺で町を苦しめた。冷酷極まりなくローマの民であれば容赦なく殺したという。こうして残忍な独裁者としての悪評が定着していく。

多部族で構成された軍をアッティラは巧みに指揮した。ゲルマン人の部族と団結し戦ったローマ人以外には、公平な統率者だった。アッティラ率いるフンの騎馬兵は迅速で、敵の隙をついて一撃で殺し、あっという間に去っていく。アッティラの成功の鍵は、短くて威力があり、馬上で使え、動きながら敵を射止めることができた合成弓だった。

何もないところから10年足らずで帝国を築き、領土は中央アジアからフランスに及んだ。ローマの人々にとってその恐ろしさは災難以上で〝神のむち〟と呼ばれていた。イタリア中を破壊し尽くし、彼の目はローマ市へ向いた。しかし、その侵攻を予想外の人物が阻むことになる。丸腰の教皇がどうにかして彼を説得したのだ。そして間もなくアッティラは不名誉な死を迎える。自身の婚礼の夜、酒を飲みすぎ眠ったまま目覚めることはなかった。

アッティラの影響力は強大で、西ローマ帝国崩壊の一因とも言われている。その凶暴な勢いは今も人々の記憶に刻まれている。

第4位 ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)

将軍にして敏腕な政治家、紀元前100年に生まれローマに新風を吹き込んだ。現在のフランス周辺を攻めたガリア遠征で功績を上げ、ローマ史に残る偉大な統率者の名声を得た。だがそのために多くの血が流れた。遠征で100万人を殺し、同じ数を奴隷にした。

カエサルはローマの領土を2倍近くに広げ、北ヨーロッパに歴史の焦点を移していく。敵からは恐れられたが、味方には不敗の英雄だった。勢いを維持できたのには、3つの理由があった。まず、前線で戦うので兵士には慕われたということ。そして世界一の軍隊の動かし方を心得ていたこと、最後に絶対に諦めないということだ。

しかし、政敵は多かった。元老院は彼に指揮官を辞して帰還するように要請した。カエサルは要請を受け入れるが、軍は元老院ではなく彼に従った。軍と共に帰還した彼にローマの民衆は、まるで神が帰還したかのように群がった。民衆に支持されて権力を手にしたカエサルは、終身独裁官となり強大な力を王のように行使した。

ローマへの影響は多大だった。壮大な建物や神殿を建造、富裕層に課税し貧者を救った。そうしてローマ帝政の礎が築かれた。ローマ共和制を1人の男が取り換えてしまったのだ。絶頂期のローマは、地上最大の都市となった。抱えた人口は100万以上だ。だがカエサルの野望は敵を生み出した。最後は臣下に襲われ元老院の床で息絶えた。

だがその独裁のもとローマの文化は繁栄を極めた。彼の指針は今も生きている。365日の暦やヨーロッパの多くの法律はカエサルが導入したものに基づいている。ローマの指導者として歴史に与えた影響は他の誰よりも大きい。

第3位 始皇帝

世界七不思議の1つ、そして土の軍隊を建造、古代文明の1つに君臨した最初の皇帝だ。それまで内乱が絶えなかった中国260万平方キロをたった9年で制し、2700万人の頂点に立った。

紀元前3世紀、彼に匹敵する者はいない。39歳で王座につき、どの独裁者にも勝る偉業を達成する。様々な改革で中国を統一し不滅の帝国を築いたのだ。まず中国に王朝を開き、軽量単位や文字を統一、交通の制度を整えた。

万里の長城の建設にも着手、他に例を見ない大規模な建設事業だ。だが帝国の維持に当たっては、無慈悲な独裁者だった。敵対者は捕らえ隷属させた。儒者を処刑し、人々を隷属させ囚人は去勢した。庶民には武器の携帯を許さなかった。独裁による支配、警察国家だったのだ。

彼は不死の力に固執していた。不老不死の仙薬を作らせたが、中には水銀を含む物があり皮肉にもその仙薬が死期を早めた。だが彼は、死後の世界も統治できるように万全を期した。陵墓の建設に70万人を動員、建設は生前から続いていた。死後は宮廷そのものが埋葬され、何百人もの奴隷や使用人、妻に側室、楽師や愛馬までが生きたまま埋められた。

彼は死後の身の安全を求め、墓を守る兵士たちを作らせた。そして軍隊をまるごと遺体のそばに埋めさせた。それが兵馬俑だ。8000体の兵士、馬、戦車を死後の護衛に当たらせた。彼の墓はトラップや巨大な水銀の池で守られていた。考古学者もまだ全容を解明できていない。

第2位 アレキサンダー大王

古代ギリシャの覇者で、広大な領土を制圧し大王と賞賛された男だ。彼の物語には神話と史実が織り交ざる。哲学者アリストテレスに学び、紀元前4世紀にマケドニアを支配。独裁者、酒飲み、盗人と見る者も聖者、英雄と崇める者もいた。王子としてのカリスマ性があった。

美化するのは簡単だが、実際は冷酷な殺人鬼だった。16歳でマケドニアを任され19歳までに王位継承者となる。数年後、ギリシャと敵対したペルシャを滅ぼし500万平方キロに及ぶ、かつてない広さの帝国を築いた。優れた指揮官であり、戦術家でもあった。

才気あふれる指揮官だったが、怒りっぽく妄想症がひどかったという。権力は時に堕落を生み出すことがあるが、性生活は複雑だった。妻が3人、愛人が1人、長年の男性の恋人、宦官とも関係を持ったし、他にもいたはずだという。酒癖の悪さは有名で、酔って親友を槍で殺したり、酒飲み競争では42人がアルコール中毒で死んだという大酒飲みだった。

15年で次々と世界に進出した後、大王は32歳の若さで死去。熱病が原因だとされている。遠征中に負けたことはなく、軍人としての能力は誰よりも優れていた。彼の不朽の名声は25万人の犠牲の上に成り立っている。それまでで最悪の犠牲者数だ。

彼の名誉と栄光の戦いは、大陸をまたぎギリシャ文化を広めた。全ての覇者としての名は記憶に残り続ける。

第1位 チンギス・ハーン

恐怖と破壊をもたらし、何千万人という犠牲の上に古代最大の帝国を築いた。優れた統治者で天才的な軍人、そして血に飢えた暴君だった。12世紀のモンゴルでは、部族間が激しく争い襲撃が相次いだ。

父親が殺され貧しい中で育ち、敵から逃げ惑う日々だった。そこから頂点に立ち、敵対する部族をまとめ上げたのだ。何もないところから力をつけて頂点に君臨した究極の人物だろう。

1206年、彼は各部族を1つの軍事組織にまとめ上げる。モンゴル帝国の誕生だ。9万の兵を引き連れて中国に侵攻し100万以上の兵力を誇る大国を滅ぼした。首都であった中都を制圧した際は、10万人以上を虐殺した。地面は人の脂まみれだったという。だが彼がやったことは破壊だけではない。

暴力的な人物だが頭はよく、中国から様々なものを吸収した。紙、印刷技術、武器や火薬を世界に広め自らも活用した。西方へ向かった彼は、今のイランの4分の3を制圧。彼らが25年で制服した領土は、ローマが4世紀かけて手に入れた領土より大きい古代世界で最も広い帝国だった。その面積は3000万平方キロ以上。アメリカ合衆国の3倍以上の広さだ。

モンゴル帝国は、民族や文化が最も多様な国家で、そこに暮らす人々は多くの恩恵を受けた。だが降伏を拒む敵対者には苦しい結末が待っていた。世界制服の過程で殺された人の数は、4000万人にもなる。スターリンやヒトラーと同等だ。あまりに多くの人が殺されたため、人が呼吸して排出する二酸化炭素の量が7億トンも減ったとまで言われている。2つの意味で驚異的な事実だ。彼は当時の人口の11%を殺し、それが気候変動まで引き起こしたのだ。

破壊力は凄まじいが、彼は秩序と文明も広めた。支配体制の地盤は固く、平安は何世紀も続いた。残虐だが頭の切れる人物でもあったのだ。例えば、中国の優れた法律や薬学は搾取せずに現地の人間に任せておき、発展させて支配すればいいと考えた。交易路は開放し、文化や技術が往来した。国内を自由に旅したマルコ・ポーロがその例だ。この一体化が強大な帝国の鍵だった。

チンギス・ハーン自身は、子孫こそ男の力だと考え後宮に何千人もの側室を置いた。彼が広大な領土を手中に収めた結果、現代人の200人に1人は、彼の血を引いているそうだ。彼の陵墓の場所は誰も知らない。埋葬に関わった人間は殺され秘されたが、彼は今もモンゴルの象徴だ。

モンゴルを含めチンギス・ハーンの帝国は、中国からアジアを経て中東、ロシアにまで及んだ。彼と肩を並べる人物はいない。彼こそ究極の独裁者だ。

 

独裁者は次々に現れるが、残虐性において古代の者にはかなわない。野心的に決意を持って容赦なく、後の世界を変える帝国を築いた。それが古代の絶対的な独裁者たちだ。

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