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アシタカってゲスな男伝説!?もののけ姫というタイトルがもたらした悲劇!?

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お馴染みの岡田斗司夫さんによるジブリ作品解説。今回は『もののけ姫』でした。これを踏まえて作品を見ると今までとはだいぶ違った印象になるようです。冒頭の10分を詳しく解説してくれているので、作品の面白さが何倍にも感じられるはずです。

ジブリ作品は本当はエロい。といういつもの解説もあって宮崎駿監督の意図も垣間見えますよ。

 

 タイトル画面の後ろの模様の意味

【画像】© 1997 Studio Ghibli・ND

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縄文人たちがつけていたと言われる土面で、縄文時代後期,晩期にみられる仮面状の土製品。主として東日本に分布し,なかでも東北地方に多く発見されている。もののけ姫のタイトルバックにはこの土面の模様が描かれている。

一つ目の怪物に角が何本も生えているという模様。一つ目の怪物にシシ神の頭がついているということを表している。シシ神とは、もののけ姫の終盤に出てくる生と死を司るサルの顔をした鹿のような神様で、その冠をかぶっている一つ目の怪物ということになる。

これはアシタカの物語を伝えた模様になっている。一つ目というのは何を表しているのかというと、鉄を作る山の民なのだそうだ。砂鉄を取ってきて炉で鉄を溶かすという作業をする際に、熱い炉を片目で見るのでみんな目が潰れてしまったと言われている。

その名残で、山に一つ目の怪物がいるなどという伝説が生まれた。そういう伝説が残る場所の近くには、砂鉄や鉄鉱石が採れる場所がある。そういう具合に、鉄の民というのは必ず片目というテンプレが存在する。つまりその鉄の民が、森の神様を殺してその角を譲り受けたと解釈できる。

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これは、ファンタジー要素の強かったナウシカと同じような表現がされている。ナウシカでは、ナウシカ自身が伝説になっていくところがタペストリーに描かれているシーンから『風の谷のナウシカ』のオープニングが始まる。

それと同じように『もののけ姫』も土面の模様とダブらしてアシタカが登場する。『風の谷のナウシカ』と『もののけ姫』は同じ構造でできていて、本編ヒーローの紹介になっているのだ。これがわかりずらいのは、ナウシカが子供っぽすぎたという宮崎監督の反省の元に制作されているためだ。

『もののけ姫』では、アシタカの物語が故郷の村に伝わって、我らが王子の冒険を称える図案として残っている。アシタカは、たたら場に残って作品は終わっている。仕事を継いだことから当然、片目は失明したと思われる。その一つ目のアシタカ王子がシシ神を倒したと伝えられて、その角も受け継いでいるという土面になっている。

本当のタイトルはアシタカ伝説だった

ではなぜ土面なのか?これは『もののけ姫』というタイトルをつけた鈴木プロデューサーが全て悪いのだといいます。元々は『アシタカせっ記』というタイトルで、せっ記というのは宮崎監督の造語で伝説という意味。つまり『アシタカ伝説』というタイトルだったのだ。

アシタカ伝説というタイトルであれば、主人公はアシタカだと思ってアシタカの物語を追っかけていくのだが、もののけ姫にされたことで印象が歪んでいるという。『風の谷のナウシカ』が『大怪獣王蟲(オーム)』だったとすると、観客は王蟲を退治する話だと思い、退治するのは誰なのか?森に帰っていった王蟲は次に何と戦うのか?という具合にゴジラを見ているのと同じような感覚になってしまう。それほどタイトルの印象は大切なのだ。

そのため「アシタカ伝説ですよ、間違わないでね」とナウシカと同じ意味だよという注意点を宮崎監督はいくつも作っている。ただ、その誘導があまりにも知的すぎて観客に伝わらないという。

話を戻すとなぜ土面にしたかというと、縄文人の文化ということを知らすために土面にしたのだ。この土面は、アシタカの故郷にいた婚約者カヤの子孫か、サンの子孫が伝えたものだと考えられる。我が一族のアシタカ王子の偉大さを思い知れというような意味のお面になっている。

カヤの子孫が伝えたと聞くと本編を見ている人たちは、ちょっと待って、アシタカが故郷に残してきたカヤって子供いないんじゃないの?アシタカのことを想い続けますとか言ってたけど…。だがカヤにはちゃんと子孫がいるのだ。それは本編の中にも出てきているのだが、観客がよくわからないように描かれている。

宮崎駿監督の高畑勲監督化

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物語の冒頭、アシタカの村に向かってくるタタリ神が描かれる。タタリ神は、土蜘蛛を表している。土蜘蛛とは、上古の日本において朝廷・天皇に恭順しなかった土豪たちを示す名称。宮崎監督としては、エミシ族の王子アシタカが、巨大な蜘蛛を退治したという話が伝聞で歪んでしまい、権力者たちに利用されて源頼光になったという解釈らしい。(※源頼光は酒呑童子討伐や土蜘蛛退治など知られる古来の勇者の代表格)

もののけ姫の頃から、宮崎監督は高畑勲監督のようになっていき、誰もわからなくてもやってしまうようになっていたそうだ。あまりにもわかるように創ってしまうと、自分の中から何かを創りたいという情熱が無くなってしまうということを自覚していたからだという。こうしてやりたい事は全部やるが、全部は説明しないというスタンスになっていったのだ。

ラピュタの頃は、やりたい事は我慢して全てを描き、キャラクターに思っていることをセリフでわざわざ言わせるようなわかりやすさを表現した。描いていいものと、描いてはいけないものを分けていたという。ところが、『もののけ姫』からは描いてはいけないものなどない。子供たちには全部見せなきゃいけない、この世の中にあるエグいものも全部見せよう。ただし、わかるようには描かないという作風になった。そのため、いろんな事がわかりにくくなっている。

土蜘蛛と言えば、東北地方の蛮族ということでしょ!とか平安絵巻の中に蛮族退治のメタファー(隠喩)として使われているのはみんなわかってるでしょ!と宮崎監督がウインクしているような表現の仕方になっている。

タタリ神の( ゚Д゚)<呪呪呪呪呪呪呪呪呪

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そして、アシタカは村を襲おうとするタタリ神に矢を放ち、命を奪う事と引き換えに死の呪いをかけられる。タタリ神の呪いはアシタカの右腕に蛇のように巻きついて真っ黒なアザを残す。

そこにヒイ様が現れる(ヒイ様はお姫様という意味)。そしてタタリ神に対してここに塚(墳墓)を造って祈りを捧げるので、これ以上祟らないでくださいとお願いする。ところがタタリ神は、意味深な言葉を残し溶けてしまう。この言葉により呪詛をかけられたと表現している。

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その夜、村では集会が行われる。その部屋には巨大な岩を祀る社が確認できる。岩の前には机が設けられており御神体であることがわかる。このことから、この村は岩が御神体である巨石文明がまだ残っているような所だとわかる。ストーンヘンジのような巨石群が青森あたりから出土していることもあり、東北のかなり奥にこの村があるということがわかる。

ヤマト朝廷にまつろわぬ民、まだ日本人が巨大な岩を信じていた時代。それは仏教渡来の遥か前であり、仏教のように人間が造ったものや、修行した偉い人などを拝むというようなことは、縄文的世界からすると邪道だとされた。本当に凄いものは自然の中にあるものであって、人間や人間が作れるようなものは、ありがたがらないというのが縄文の世界観なのだ。

画面の右手前には縄文土器も確認でき、彼らが縄文人の生き残りであるとわかる。『もののけ姫』が創られた時、エミシという一族は縄文人の生き残りなのではないかということが日本の考古学界で騒がれた時代だった。現在では、その考えは主流ではないそうだが、宮崎監督はそれに乗っかって創っている。つまり縄文人の話となっているのだ。

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アシタカが腕のアザを見せるシーンのバックには、縄文土器が配されていて彼らが縄文人であると念押しされている。さらにタタリ神によってできた蛇のようなアザ、縄文土器のような模様、タタリ神に取り憑いていたウネウネが全てリンクされている。

作品の最後に出てくるディダラボッチの体の中でも、縄文的な模様がずっと動いている。設定資料には「歩く縄文土器のようである」と書かれており、アシタカの呪われた腕というのは、アシタカが苦しんでいてもうすぐ死んでしまうという風に考えがちだが、本来、縄文の神々のサインであり、アシタカは呪われたと同時に神々によって聖痕を与えられたという表現になっている。呪いによってタタリ神にもなるのだが、アシタカはそれによってもの凄い力を見せるシーンもある。

国の王子を追い出しにかかる訳

アシタカは、ヒイ様にアシタカ彦と呼ばれている。彦とは王子の呼称なのでアシタカは、王子であることがわかる。ヒイ様はこの村の宗教的な中心であって、アシタカこそ、この村の将来の長となる立場なのだ。その王子に呪いと同時に聖痕が与えられたという流れになっている。

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呪いをかけられたアシタカは、国を出ることになる。そしてアシタカは髷を切り落すのだが、このシーンに出てくる刀は凄く小さい。おそらく、この小さい刀だけがこの村にある鉄であって、この鉄以外は、石器文化と青銅文化の間くらいと考えられる。

この後にアシタカが持っている大きな刀は、山を歩く時に邪魔な蔦などを打ち払うための山刀で青銅文化のものでしかない。5トンの鉄を作るには、山が1つ無くなると言われるほど膨大な火力が必要で、もし村の人間が大きな鉄の刀を持っていたとしたら、周りに森など残っているはずがない。アシタカが髷を切った刀は、砂鉄を低い温度で精製してなんとか研ぎ出して造ったものと思われる。

髷を落とすということは、一族でなくなる。この国の人間ではなくなってしまい、二度と戻ることはできないということを意味している。ではなぜこんなことをさせたのか?

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ヒイ様は笑顔でこんなことを言っている。

「西の土地でなにか不吉なことがおこっているのだよ。その地におもむき、曇りのない眼で物事を見定めるなら、あるいはその呪いを断つ道が見つかるかもしれぬ。」

この言葉を聞いてアシタカは西に行こうと決意する。同時に観客もなんとなくそれで納得させられる。というか騙されます(笑)。

  • なぜアシタカは、そもそも村を去らねばならないのか?
  • なぜ、ヒイ様は西に行かせようとするのか?
  • 呪いを解く方法が見つかるかもしれないという根拠は?

アシタカは呪いを受けて右腕にアザができ、その内死んでしまう。この死から逃れるために西へ旅に出るという風なストーリー展開だと観客は思わされている。

だが、そもそも追放する必要はないのである。この物語では、死んだ後に祟った神様はいない。出てくる神様は、凄い力を持っていて体も大きいのだが、それだけなのだ。超常現象のようなことは一切起こせない。死んだ古代の神から呪いを受ける描写など1つもない。

ではなぜ追放したのか?

それはヒイ様が追放したかったから。アシタカの呪いの正体というのは死ぬことではなく、タタリ神になってしまうということをヒイ様だけが知っていたのだ。アシタカはこれからゆっくりとタタリ神になっていく。村を襲ってきた怪物と同じように、自分の運命を呪って自分の痛みにだんだんと耐えられなくなっていく。タタリ神となったイノシシも最初は理性で抑えていたが徐々にタタリ神へと変わっていったと考えられる。

アシタカに与えられた聖痕

アシタカは、イノシシから次のタタリ神という業を背負わされてしまった。アシタカはこの後、戦争に巻き込まれた時に信じられない威力の矢を放ち、自分で自分の力に驚く。この事からアシタカには、神の力が与えられているということがわかる。聖なるパワーであると同時に呪いのパワーでもあるのだ。呪いのパワーは、アシタカを苦しみへ誘い、聖なるパワーはアシタカの力を無限大に膨らませていく。

この物語は、アシタカが人間のままでいられるのか、タタリ神になってしまうのかという地下構造としての葛藤が仕組まれている。これがわかりずらくなってしまったのは、タイトルを『もののけ姫』にしちゃったことにある。恋愛物語などではなくアシタカ伝説なのだ。アシタカは終始、無表情で礼儀正しく描かれており、彼の中にどんな絶望や怒りがあるのかは表現されることなかった。

これは、宮崎監督が製作中に司馬遼太郎との対談で彼の言葉に感銘を受けたことが理由だという。庵野監督のエヴァンゲリオンのように、自分は不幸だ!かわいそうだ!なんてことを言うのは弱虫!本当に不幸な人間は礼儀正しくなるということを司馬遼太郎に言われて凄く感動した影響らしい。

映画の後半では、怒りの感情によって自分自身の力を制御できなくなるという描写も出てくる。アシタカの心の葛藤は描かれないが、要所要所で信じられない力を発揮し、次第にモンスターと化していく様子は描かれている。

ヒイ様が怖いのは、死んだタタリ神ではなく、これからタタリ神になって、人間ではなくなってしまうアシタカだったのだ。アシタカ自体は、良い子で良い王になるだろうが、怒りと恨み、不条理さに負けて怪物になってしまうはず。その前に村から追い出そう、我々の村に祟りを送った西のヤマトの王の下に追いやろうと考える。この時代の考え方として祟りというのは、祟り返さないと無くならない。これを忌み返しと言う。

つまりヒイ様は、戦略兵器としてのアシタカを西の国のヤマトへ送りつけるという忌み返しを発動させたわけだ。これには、村人もアシタカも気がついていない。呪いがこの村に移らないようにと考えており、自分自身が呪いだとは考えていないのだ。

アシタカそのものが呪いだと気がついていたのは、ヒイ様とジコ坊2人と思われる。アシタカの力に気がついたジコ坊は、ディダラボッチをアシタカを利用して倒すためにアシタカに、もっと西に行けば呪いが解けるかもしれないというようなことを吹き込んでいる。このように『もののけ姫』は、個人個人が持っている思惑や戦略というものを説明せずに、あくまでアシタカの視点でだけで描かれている。

本当はエロいもののけ姫

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カヤが、村を出ることになったアシタカを引き止めて黒曜石でできた小刀を手渡し、愛の告白をするシーンがあります。

「お守りするよう息を吹きこめました。いつもいつもカヤは兄さまを思っています」

「わたしもだ。いつもカヤを思おう」

いつもカヤを思おうというのは、生涯、誰とも恋をしませんという意味になる。女性の方でこのシーンを嫌いな人、アシタカのこういうところが嫌いという人が、かなりいるという。なぜかというと、ここまでの愛の告白をされて渡された小刀をアシタカは、後にサンにさらっと渡してしまうのだ。

呪いが解けた後も「サンに会いにヤックルに乗って森に行くよ」とイチャつくシーンがあるが、そんな暇があるなら生まれ故郷に帰ってカヤに会ってやれよ!故郷に戻れよ!って思う人が多いのだとか(笑)。実はこのシーンは意味が違うのだ。ここが宮崎監督が全ては描くけれどもわかるようには描かないという部分なのだ。

夜中に女のコが忍んで村の外れに会いに来て、自分は生涯恋をしない=貞操の印をくれる。これがどういう意味かというと、2人は人目を忍んでセックスしたということ。そのセックスシーンを宮崎監督は描きたくないので、わざわざ小刀(貞操を守るという象徴)を渡すことによってメタファーとして表現している。

ここで、カヤとアシタカは人目を忍んでセックスしているので、カヤの中にはしっかりとアシタカの血筋は残っており、それがあの一族の土面の形(アシタカ伝説)となって帰っていくという風になっている。

『もののけ姫』には、もう一つセックスシーンが含まれている。それはアシタカがサンに看病されていて、何日も寝たきりのところから起きるシーン。アシタカがサンを見つめていると、サンは無防備な寝顔で寝ていて脚も見えている。このシーンの絵コンテを見た鈴木プロデューサーは、ピンと来て宮崎監督に、この2人セックスしましたよね、と聞いた。

宮崎監督はこういう時には、そうなのか、違うのかはっきりと答えるらしい。だがこの件に関しては一切答えようとしなかったという。しつこく問い詰めると「そんなのわざわざ書かなくてもわかるだろう」と宮崎監督は答えたという。

このように宮崎監督が、今回取った表現技法というのは、カヤが夜中に会いにいくというだけで、この部族にとっては関係があったという風に見なされるというもの。カヤはアシタカが出て行くことに関して、「行かないで」や「連れて行って」などグズグズ言わない。それはなぜかというと、既にセックスして子供をもらっているからという意味になる。アシタカの血筋は残って、それはカヤが受け継いだ。そんなことも、このシーンでわからないヤツは、そもそもオレの映画がわからないというスタンスらしい?

関係があったという事実は描きたい。だが表現はしたくない。という宮崎監督の描き方なのだ。

プロポーズのその後

「なぜ、アシタカはカヤが待つ村に帰らないのか?」と聞かれた宮崎監督は、そんなの映画の中で描いていないだけであの後、アシタカはあの村に帰ったかもしれないし、それどころかサンを連れて帰ったかもしれない。サンを連れて帰ってカヤと会わせ、カヤとサン両方を嫁にしたかもしれないと答えている。それがこの世界だし、そういう話なのだ。王族の話だからそうなんです!という風に言っている。

アシタカが女性視聴者たちに勘違いされているシーン

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アシタカの心の中は、絶望と悲しみで真っ暗。アシタカは凄く礼儀正しいので、村から出て行けと言われて村を出た。なぜ村と女の子を救った自分がこんな目に合うんだ!という気持ちでやりきれなさで震えるくらいの腹立たしさと悲しさだった。だがカヤにはそれを見せたくなかった。なので必要以上の笑顔をカヤに見せた。

それが別れを迎えて悲しそうなカヤと笑顔見せて嬉しそうなアシタカという風に見えてしまうアシタカの悲しさだという。そんなアシタカの心意気にプレゼントしたい、アシタカの旅立ちに最高の朝をあげたい。という宮崎監督の気持ちが爆発!?

それがこのきれいな風景となり、最高の音楽シーンとなった。ところがそんなアシタカの心情は観客には伝わらず、きれいな風景と荘厳な音楽が相まってアシタカが楽しそうに旅立っていくという風に伝わり、なんだかんだ言ってアシタカって楽しんでるよねという印象になってしまったのではないかという。

『もののけ姫』というタイトルをつけてしまったために、村の地味な女のコの次にはもっといい女が待っていて、音楽も盛り上がっちゃうよ!という風に見えてしまったのだ。

アシタカは気軽に好きな女のコの気持ちを弄んで、次に好きなった女のコに小刀をあげちゃう最低男ではないのだ。

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