大奥誕生の経緯
徳川家康が開いた江戸幕府。以来、徳川家は260年の長きに渡って政権を握ることになるのだが…。一体なぜこれほどまでに長く権力を維持し続けられたのか?
その理由は、大奥の存在。将軍が後継を作るために、妻や側室を集めた場所として知られているが、その誕生には徳川の威光を陰らせるある事件があった。
時は江戸初期、三代将軍家光の時代。実は、家光は超がつくイケメン好き。今で言うゲイだった。女性に興味がなく三十代になるというのに世継ぎがいなかった。
これを誰よりも危惧していたのが、家光の乳母・春日局。世継ぎがいなければ、将軍の座を巡って争いが起き、再び戦乱の世に戻る危険性も。そこで、春日局がとった作戦が男装した美少女を送り込むということだった。家光はこの女をたいそう気に入り、初めての子が生まれた。
こうして女に興味を持ち始めた家光のために、好みの女性が次々に集められ大奥が誕生する。その規模は、次第に拡大!最盛期には江戸城本丸の半分以上を占める2万平方メートル、1000人もの女中が働き幕府の予算の四分一、年間200億円も注ぎ込まれるまでに。ただの世継ぎ作りの場だった大奥が、次第に政治や外交にも絶大な影響力を持つようになる。
大奥で成り上がるある女性の物語
主演:お桃
大奥の真実!女中の採用はオーディション制
大奥に入るには願書を出し、御吟味と言われる採用試験を受ける必要があった。その選考の内容は、書道や裁縫、日常生活に必要な技術だけではない、ルックスも重要だった。さらに、女中は原則、旗本や御家人の娘のみ。厳しく審査されるが実は身分が大事だった。一定以上の身分が求められ誰でもなれる訳ではなかった。
なんとか大奥で働くことになったお桃。しかし来る日も来る日も下働きの日々。
大奥の真実!厳しすぎる階級社会
大奥ではトップの御年寄から、お桃のような一番下の御末まで細かく身分が分けられていた。将軍に直接会えるのは、1000人以上いる女中のうち100人もいなかった。待遇の差も歴然で、御年寄は年収およそ2000万円。一方、御末は100万円以下。超格差社会だったのだ。
さらに、御末は身分の高い人の視界に入ることすらNG。廊下でばったり出くわしてしまったら、うつぶせのままバックしなければならなかった。さらに新人女中には、毎年ハダカ踊りをさせられる決まりだった。表向きは刺青のチェック、だが実際は息抜きのイジメだった。
その後もめげずに必死に働き続けたお桃。気が付けば10年が過ぎていた。
大奥の真実!毎朝 将軍を「御鈴廊下」でお出迎え
御鈴廊下とは大奥への唯一の通路。毎朝、ここで将軍を出迎えていた。地道に出世を重ねること10年。将軍に会えるまで上り詰めたお桃だったが…。将軍と夜を共にできるのは、ひと握りの選抜メンバー「御中臈(おちゅうろう)」のみ。選んでいたのは、大奥のトップ御年寄。彼女に気に入られなければ側室にはなれなかった。
大奥は幕府の諜報機関の役割も持っていた。情報と引き換えに出世したい。そんな女たちが各地の大名の情報を次々と持ち込んでいたのだ。
大奥の真実!結婚斡旋所でもあった
幕府は大名の勢力を封じるため、勝手な婚姻を禁じていた。集まる情報をもとに縁談を差配していたのが、御年寄などのトップの女中たちだったのだ。実際、あの篤姫が薩摩藩から徳川家に嫁いだのも姉小路という大奥の女性が決めたこと。大名だけでなく将軍の結婚も大奥が指図していた。
御年寄に気に入られたお桃はついに御中臈にまで出世する。こうしてついにお桃にチャンスがやって来た。御鈴廊下で将軍に見初められたお桃はついに初夜を迎える。
大奥の真実!「夜」は二人きりではない
側室は寝室で将軍と二人きりにはなれなかった。身内の出世などおねだりしないように、お添い寝役と呼ばれる他の側室が常に聞き耳をたてていた。そして、抱かれた回数やその様子を詳細に御年寄に報告していた。
大奥の真実!将軍に一度でも抱かれると生涯、城の外に出られない
将軍の性癖はトップシークレットだったからだ。子を身ごもったお桃。だがこれで安泰とは言えなかった。妊娠すると嫌がらせがエスカレート。嫉妬のあまり毒を盛られることもよくあったという。
大奥、そこは愛と権力を奪い合う魑魅魍魎たちの世界!