江戸時代後期に活躍した葛飾北斎の代表作「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」。海外では「The Great Wave」と呼ばれ人々を魅了し続けている。彼の大胆な構図や色使いは西洋の名だたる画家たちにも大きな影響を与えた。
その唯一無二の作風は、どのようにして生まれたのか?そこには常人では計り知れない、彼の型破りな生き様と感性が隠されていた。
葛飾北斎の生涯
勝川春章に入門
物心ついた時から絵に興味があった北斎は19歳の時に、当時の人気浮世絵師だった勝川春章に入門。春の一字をもらい勝川春朗のペンネームで役者絵を発表するも全く人気が出なかった。
それでも北斎は、一心に絵を描き続けた。しかしある日、師匠の勝川春章に破門されてしまう。好奇心旺盛な北斎は、実は一人の師匠に学ぶだけでは飽き足らず、こっそりと別の流派も学んでいたのだ。それがバレて破門されてしまったのだった。
それでも絵に対する情熱は、深まるばかり。こうなったら好きな絵を思う存分書いてやると決心する北斎。この当時、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」が旅行ブームを巻き起こしていた。これにヒントを得た北斎は、役者絵や美人画など人物を描くのが当たり前だった浮世絵では常識外れの風景画に着目、「東海道五十三次」という絵を描き上げた。
富嶽三十六景に着手
北斎はなんと、広重がこのテーマに挑む30年も前に東海道を題材にしていたのだ。その後も次々と斬新な作品に挑戦していく。富士山信仰が流行していると聞けば、北斎は迷わず「富嶽三十六景」シリーズに着手。
これは日本橋から見た富士山。西洋の遠近法が用いられ、あえて橋そのものは描かず、人々の喧騒と富士山の凛とした姿を対比している。
別名「赤富士」とも呼ばれる「凱風快晴」。独特の色彩感覚で堂々とした富士山を描写。北斎の目に映る富士山はいつも常識を超えていた。
そして、北斎ならではの独特の感性で描き上げたこの名作。船に襲いかかる波とそれを悠然と眺めているかのような富士山。動と静が交錯する場面を鮮やかに切り取っている。カメラのない時代、彼には波の細かな一瞬の動きが見えていたのだ。当時の人々のど肝を抜く作品だった。
実は、型破りな作風は北斎の生き様そのもの。絵を描くこと以外、全てに無頓着だった北斎、家の中はゴミだらけで着の身着のまま布団をかぶってひたすら絵を描き続けたという。その挙句、驚きの行動を取っている。なんと北斎は、生涯で93回も引っ越したというのだ。
常識を覆す破天荒ぶり
そんな鬼才ぶりはこの絵にも。名作「蛸と海女」ただ、女と男が絡んでいても面白くもなんともないと、浮世絵の概念を覆す衝撃の作品を送り出す。北斎にしかできない大胆かつ奇抜な発想だった。
常識を覆し続けた北斎。死ぬ直前まで筆を取り、浮世絵や肉筆画など生涯で3万点もの作品を残したと言われている。88歳でこの世を去るまでその熱意は燃え尽きなかった。死の間際に彼が残した言葉がある。
「天がもう五年私を生かしてくれれば、私は本物の画家になれたであろう」
時を超え、北斎の絵は今も世界中から賞賛されている。