現在も文春砲が毎週のように報じる禁断の愛。禁断と言われれば言われるほど2人の愛は燃えていく…。教科書にも載る超有名作家なのに明治時代、禁断の愛で世間を騒がせた男。それが文豪・島崎藤村。
明治の文豪として初期は浪漫主義で、その時の詩集である「若菜集」が代表的な作品。途中からは、自然主義に転じて「夜明け前」、「破戒」などの代表作を残して日本文学に燦然と輝く金字塔である。
多くの名作を残す天才小説家が溺れた禁断の愛とは?
島崎藤村の禁断の愛
島崎藤村の暮らし
明治後期1910年、文豪・島崎藤村は、妻・冬子との間に授かった子供たちと仲睦まじく暮らしていた。藤村はいよいよ小説家として軌道に乗り始め、このまま人気作家の地位が約束される目前だった。
しかし、悲劇が起こる!四女の出産で母体の損傷が大きく、妻・冬子は夫の成功を喜ぶこともできぬまま帰らぬ人となってしまう。この出来事が後に大正の世を騒がせる大スキャンダルへと発展する。
スキャンダルへと発展する出会い
妻が亡くなってからというもの、藤村は家事や育児に追われる日々。小説の執筆作業も滞り収入も激減、ほとほと困り果てた藤村は実の兄・広助に助けを求めた。兄・広助の計らいで紹介されたのが、藤村の姪にあたるこま子、当時19歳。今回のスキャンダルの2人はこうして出会ったのだ。
こま子はしばらくの間、島崎家に同居し家事を手伝うことになった。しかし、これからがスキャンダル。なんとこれが更なる悲劇の始まりだった。
あろうことか藤村は、実の兄の娘である姪・こま子と一線を超えてしまったのだ。愛人関係が認められていた時代においても、さすがに親族に手を出すのはタブー。しかも、こま子は叔父である藤村の子供を身篭ってしまう。どうけじめをつけるべきか、藤村が取った行動は…
なんとフランス留学と称して逃亡!しかも身籠のこま子と子供全員を置いて一人で逃亡するという身勝手で無責任な行動に出る。残されたこま子は、産んだ子供をすぐに養子に出し、親子離れ離れに…。
2度目のスキャンダル
3年の時が経ち、1916年かつての過ちも忘れ去られたかと思っていたが、再びスキャンダルが起こります!密かに帰国した藤村が会いに行った相手は、なんとこま子。あろうことかフランスで3年暮らしても禁断の愛の火は燃え続けていたのだ。そしてまさかの元鞘。この2度目の過ちが、彼をさらなるトンデモナイ行動へと突き動かすのです。
なんと、姪とのこの話を「新生」という作品に書いて発表したのだ。これによりこま子は、日本にいられなくなり台湾の知り合いの所へ身を寄せなければいけない状況に陥ってしまう。藤村が作品を書かなければこんなことにはならなかったのだが…。このことは芥川龍之介などによって大いな批判を受けることになる。
藤村は、作中で愛するこま子を「愛したこともなく、愛されたこともないような娘」、「心を誘惑すべき何物をも彼女はもっていなかった」と表現し、魅力がない、まして禁断の恋に落ちるはずもない女性だったと綴っている。