明治維新の英雄・西郷隆盛といえば、この肖像画。しかし、この絵は西郷本人を見て描かれていない。本当の顔は今だに謎、そしてその死もまたミステリーに包まれている。
明治10年西郷隆盛は、新政府に叛旗を翻した西南戦争。戦いに敗れ自決した西郷の遺体からは首が消えていた。定説では敵の銃弾を受けて最期を悟った西郷は「もうここらでよか」、自決を選び味方の介錯を受けた。そして首が敵の手に渡らぬよう隠されたとされている。
これに異を唱える歴史作家がいる。西郷は自決ではなく、何者かに殺された。しかも、明治維新をともに成し遂げ最も信頼した男の裏切りにあったという。西郷を殺したのは一体誰だ?消えた首に秘められた死の真相に迫ります。
西郷隆盛の死の真相
西郷隆盛はこんな英雄だ
愛称は西郷どん(せごどん)、身長179cm、体重108キロ。幕府を倒し明治維新を成し遂げた功労者。明治政府では参議(現在の大臣のような役職)を務める。その後、反乱軍として西南戦争を起こす。
7人兄弟の長男だった西郷は、薩摩藩士の父親に200両(現在の1200万円)もの借金があり貧しい幼少期を過ごす。3人の女性と結婚したバツ2で、京都には愛人もいた。
ダイエットのためにウサギ狩りを始め、猟犬を連れており20頭の犬を飼っていた。上野の銅像で一緒に立っている犬の名前はツンという。大の写真嫌いで写真がないため、本当の顔がわからず様々な肖像が生まれた。
西郷の首
明治10年9月24日、西郷隆盛の遺体は発見された。しかし、その遺体には首がなかった。首が確認できなければ西郷が死んだとは言い切れないと政府軍が必死に捜索した結果、ある屋敷の庭先に隠されていた首を発見。西郷の顔を知る指揮官・山県有朋らが確認し西郷の死が発表された。
ところが人々はそれを信じようとはしなかった。見つかった西郷の首は偽物で、生き延びてシベリアにいる。さらには星の中に西郷の姿が見えるという噂が広まり、その頃地球に接近していた火星が西郷星と呼ばれ大騒ぎになったという。
西郷の首の真贋論争は、つい最近まで続いた。しかし2014年、当時西郷の首を発見した将校の履歴書が発見された。履歴書に書かれていたのは、西郷の首を見つけた時の詳細。死後100年以上を経て首を発見した経緯が証明されたのだ。
なぜ現代まで長きに渡って西郷の首に関するミステリーが語り継がれてきたのか?その原因こそ西郷の写真がない、彼の本当の顔が知られていないことにあったのだ。
西郷は写真を撮ることを極端に嫌っていた。そのため彼の死後、様々な肖像画や銅像が遺族や彼を慕う者たちによって作られた。上野にある有名な西郷像、妻からは「こげんなお人じゃなかった」と酷評された。その後、故郷の鹿児島に銅像が作られた。しかし、意外なことに西郷に体つきや顔つきがそっくりだと言われた赤の他人をモデルに作られている。
誰が西郷を殺したのか?
疑惑の舞台は、明治10年の西南戦争。この戦いを仕組んだのが、大久保利通。当時、政権のトップに君臨していた男だった。
当時、大久保たち新政府の改革に不満を持つ士族たちが各地で反乱を起こしていた。そしてそのリーダーに期待されていたのが西郷だったのだ。その頃、西郷は意見の対立から政府を離れたばかり。大久保は政府に不満を持つ西郷に挙兵させ討ち果たせば、不平士族たちの反乱を抑えられると考えた。そこで、西郷が鹿児島に作った「私学校」という軍事学校に揺さぶりをかけた。
大久保はここで切り札を使う。外国で密偵や暗殺といった秘密警察の手法を学ばせた男(警視庁大警視・川路利良)だった。西郷暗殺計画、大久保たちは23人もの警視庁の巡査を密偵に仕立て鹿児島に放った。しかし、真の狙いは別にあった。大久保らが西郷暗殺を企てているという情報をあえて流し、薩摩軍全体を挑発し蜂起させることが狙いだったのだ。
計画通り私学校の生徒たちはいきり立ち、挙兵を西郷に促した。だが西郷は起たなかった。そこで大久保たちは次の手を打つ。薩摩藩の時代から戦のために用意していた火薬庫から武器弾薬を取り上げ運び出させたのだ。これに激怒した私学校の若者たちは、西郷の指示を仰がず運び出しを阻止したうえ、暴動を起こしてしまう。
西郷は決断を迫られる。暴動の首謀者の引渡しか全面戦争か…。西郷は薩摩を守るために遂に挙兵を決意する。
幼少期の西郷と大久保
なぜ西郷と大久保はこれほどまでに敵対することになったのか?その謎を解く鍵は2人の育った鹿児島の街にあった。
西郷と大久保は、薩摩藩の下加冶屋町(したかじやまち)で育った。貧しい下級武士の家に生まれた2人。西郷は3つ下の大久保をとても可愛がり、2人は兄弟のような間柄だったという。
実はこの町、他にも日露戦争で日本を勝利に導いた東郷平八郎や、総理大臣の山本権兵衛など多くの偉人を排出している。その秘密が薩摩藩で行われていた独自の教育制度、郷中(ごじゅう)教育にある。
総十個ほどの郷中ごとに、先輩が後輩に武芸や学問を教える。体力に加えて指導力や考える力を育み、厳しい稽古などを通し仲間同士の友情や絆を深めた。この郷中のリーダーとして台頭したのが西郷で、目をかけた大久保を始め郷中の仲間とは明治維新、そして西南戦争まで行動を共にした。
西郷と大久保の関係に変化が起こる
明治維新という奇跡の原動力となった西郷と大久保の絶妙なパートナーシップ。しかし、永遠に続くかと思われた2人の間に思わぬことが起こる。
明治4年11月大久保は、海外使節団の一員として欧米諸国の視察と不平等条約の改正のため旅立つことに。西郷が留守政府を預かった。西郷と大久保らの間には、留守の間に内政には手をつけないという約束があった。しかし、産声を上げたばかりの日本を1年半も放っておくわけにはいかなかった。
西郷は廃藩置県という一大改革を軌道に乗せると、司法制度を整え、学制や徴兵制、地租改正など近代日本を形作る政策を次々と実行した。これに激怒したのが帰国した大久保だった。
大久保にとって明治政府は自分の子供も同然、それが帰国してみると自分がやろうとしていたことや、考えの及ばないことまでやれらてしまっていたのだ。ここが男の嫉妬から憎悪へと変わっていくポイントだったのではないだろうか。
そして、明治6年朝鮮に施設を派遣する外交を巡り2人は衝突。大久保は策略を巡らせ西郷を政府から排除する。世に言う「明治6年の政変」である。
西郷はこれを機に鹿児島へと戻る。そして、大久保にとって最も危険な存在になったのだ。政府に不満を持つ武士勢力が各地に燻っており、西郷がもし全国の不平士族に呼びかければ取り返しのつかないことになる。なんとか根絶やしにしたいと考えた大久保は、西郷を殺して不平士族たちの見せしめにしようと考えた。明治維新を完成させるために必要なのは西郷の首だったのだ。
西南戦争勃発
そして西南戦争が始まる。西郷の首を狙う政府軍と必死に守る薩摩軍の戦いは、激戦を極め日本史上最大の内戦となった。記録によれば、明治10年9月24日未明、城山に立てこもった薩摩軍は、政府軍から総攻撃を受ける。その最中、西郷は敵の銃弾を2発受け動けなくなった。西郷はその場で介錯を求めたと言われている。
しかしこの時、西郷が受けた銃弾こそが疑惑の銃弾だという。西郷は政府軍に投降しようと考えていたのではないか?投降によって自分たちの決起の意義を国民に問うつもりだった。無論、死刑は覚悟していた。それを許せなかった男がいる桐乃利秋だ。
桐乃利秋とは、西南戦争を実質指揮した西郷の側近。まさに郷中教育の申し子のような男で、年上の西郷を神のように崇めていた。
最初の銃弾は桐乃だった。西郷先生は誰にも渡さない!という桐乃の気持ちを西郷は汲んだ。
「もうここらでよか」
そして2発目を撃ったのはもう一人の側近である村田新八だった。彼は桐乃の気持ちを理解していた。西郷の死に場所はここだ。敵の手には決して渡さない。
西郷に対する崇敬の念というのは、2人の心の中に刷り込まれている。彼らは彼らで西郷の取り合いを演じてきたわけで、それが最終的に積もりに積もって西郷の死は、故郷の薩摩で、しかも自分たちの手で行わなければいけないというぐらいまで行ってしまったのではないか。みんなの西郷さんではなく、俺の西郷さんでいて欲しかったという想いがあったのかもしれない。
その想いが最も強かった人物こそ大久保だった。彼は西郷の死の知らせを聞き、号泣したという。西郷を殺したのは不平士族を一掃するため、しかしその深層心理には一心同体も同然の西郷を奪われたくないという男の嫉妬が渦巻いていたのかもしれない。
そして歴史は繰り返される。西南戦争の翌年、大久保は不平士族の1人に暗殺された。実はこの時、大事に身につけていたのはかつて西郷から受け取った手紙。海外の視察先から自分の写真を送ったことへの返事だった。
醜態を極まる もう写真を撮るのなどやめなさい
手紙にはそう書かれていた。それが西郷の信念だったのだろうか。彼の死後に完成された肖像画には、あらゆる人々から深く愛された西郷の内面が刻まれている。