1988年4月16日に公開された「火垂るの墓」。今年で公開から31年目となった。アニメ映画では唯一無二とも言える、見ている人の心を掻き毟る描写がすごい火垂るの墓に岡田斗司夫さんが迫る。
とにかく本当に怖いをテーマに「火垂るの墓」を分析します。トラウマになるかもしれないので、これからも火垂るの墓を純粋に楽しみたい方は見ない方がいいかもしれないですよ。
本当は10倍怖い「火垂るの墓」
火垂るの墓を見た人の感想は5パターン
・とにかく清太が身を寄せた親戚のおばさんが憎い
神戸大空襲で家を焼かれた清太と節子は、父の従兄弟の嫁で今は未亡人である親戚の家に身を寄せることになる。とにかくこの家の叔母さんの言動や行動が憎いという感想を多くの人が持つようだ。
・清太が悪い!
とにかく働けよ!寝てるんじゃない。食うだけ食って、洗い物を叔母さんにさせるようなヤツはクズだ。というような清太が悪いという感想。
・全部戦争が悪い!
こんな状況になったのは、そもそも戦争になったからだ。戦争で追い詰められたことにより、親戚の叔母さんの口調は強くなるし、父親が海軍士官でエリートの家に生まれた清太が、幼少期に多少のわがままもできなくなってしまったというもの。
・家に来い!
とにかく、清太も節子もかわいそう。家に来たらなんでも好きなものを食べさせて上げるのにという悲痛な叫びが多くツイートされていた。
・もう見てられない(゚д゚lll)
とにかく内容が辛すぎてもう見てられない。
冒頭5秒の謎
まず暗闇の中に正面を向いた清太が現れる。「昭和20年9月21日の夜、僕は死んだ」
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幽霊の清太は、駅で死にかけている自分を見ている。やがて死に絶えた自分の側に駅員が寄ってくる。死んだ清太の遺品を探る駅員。すると缶を発見する駅員。だがゴミと思い駅員は投げ捨ててしまう。すると缶の中から骨が出てきて、そこに季節外れの蛍が飛び交う。
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蛍の中から幽霊の節子が現れて、駅で倒れている清太の死体を見ている。節子が清太の死体に駆け寄ろうとすると、後ろから止められる。振り返ると幽霊の清太がいて2人は手をつないで左にフェードアウトする。そこに「火垂るの墓」というタイトルが表示される。
【画像】© 野坂昭如/新潮社,1988
という冒頭5秒の流れなんですが、清太が死にかけている自分を見ているシーンに秘密がある。1カットづつ細かく見ていくと、清太が自分の死体を見る前に柱の手前に戦後のデザインの灰皿が描かれている。つまり清太の霊は、公開時の1988年に存在していて、自分が死んだ時のことを思い出して苦しんでいるということを表現しているのだ。
ブルーレイで確認してみると、1987年に駅をロケハンした映像に同じ形の灰皿が記録されている。火垂るの墓は、過去の話をしていてラストシーンで現在に戻ると思われていたが、冒頭から現在が描かれていたのだ。
冒頭から清太の霊が、自分の人生最期の3ヶ月間を何度も何度もリプレイして苦しんでいるというところから始まる話なのだ。では、なぜそんなことになってしまったのか?なぜ、清太は死後40年あまりもそこに囚われているのか?という理由と説明がこの映画になっている。
まとめると清太が地縛霊のようにこの土地に四十数年も囚われ、なぜ最も辛かった期間を何度も何度もリプレイ体験させられるのか、呪われている理由は何なのか?というミステリーになっているのだ。
なぜこんなトラウマアニメを作ったのか?
節子が後半、栄養失調で死にかけていて清太が最後の貯金をおろして米と卵、鶏肉を買い、節子のために雑炊を作ってあげるが、作っている最中に節子は死んでしまうというシーンがあります。
そして節子が死んだ翌朝、清太が節子を火葬している間に清太たちが住んでいた洞窟が映し出されるシーンがある。そこには食べ終わって空になった雑炊の土鍋が描かれている。妹のために作った雑炊を普通は、妹が死んじゃったからといって食べないだろう。
さらに節子が一口しか食べなかったスイカも、皮だけになったスイカの描写がされている。節子が死んでしまった後に清太が、生きていくために食欲を満たしたという高畑監督のリアリズムが描かれているのだ。
節子の死後、清太は無表情に描かれている。清太が無表情な理由は、この時の清太は人間性を失っているから。人間性を失っているから妹が死んでもお腹は減るし、雑炊も食べてしまう。妹が死んだことでもう世話をしなくていいと安心したことでお腹が減ってしまう。というような表現がされているのだ。
しかし、観客は無表情で妹を弔う清太を見て勝手に清太の気持ちを解釈して泣いてしまう。演技者が無表情でも観客は、前後の映像で無意識に意味を解釈するという性質がある。これをクレショフ効果と言い、観客は人間性が壊れた清太を見て、人間性を取り戻して感情が動いて泣いてしまうという、アクロバティックな構造でできている映画なのだ。
高畑監督は「火垂るの墓」を文芸アニメとして作っている。多くはエンターテインメントアニメとして作られて、キャラに演技をつけて、このキャラが何を考え、どういう人物なのかをセリフで説明する。しかし文芸にはキャラという概念はなく、何を考えているからわからない登場人物を観客一人一人が、この人物は何を考えているのだろうかと回答を出すのが文芸なのだ。
高畑監督は「火垂るの墓」を文芸アニメとして作っているので、一人一人が考えて違う答えを出せるように作っている。高畑監督は別にトラウマアニメを作るつもりはないし、それどころか泣かせたり、感動させたりする気もない。考えたり悩んだりして欲しいのだ。なぜ節子は死ななければならなかったのか?なぜ叔母さんはいじわるなのか?なぜ清太は死んでしまうのか?ということを一人一人に毎晩考えたり、1年考えたりして欲しくて制作したのだ。泣いたり、現実逃避したりして思考を停止することを望んではいないのだ。それが高畑監督にとっての文芸なのだ。
火垂るの墓の意味とは?
そもそも蛍という言葉が出てくるのは、清太が夜空を飛ぶ飛行機の明かりを見て「特攻機だ!」と言ったのを聞いて、節子が「蛍みたいだね」と言ったことから始まる。このようにこの作品においての蛍というのは、死ぬ直前に最後の光を放つ存在として描かれている。
清太は節子のために蛍をたくさん集めてきて蚊帳の中に放つ。このシーンは引きで見ると遺影のようになっている。この作品で光の演出がされる時は、死を暗示させるような映像効果として使われている。この作品の中で光るものは、全て死んでいるものになっている。
翌朝、大量の蛍の死骸のお墓を作る節子の姿が描かれている。蛍にとって清太の行動は、無慈悲で不条理なものだ。光を放ち始めたら数日で死んでしまう蛍を、自分たちの慰みのために蚊帳の中に閉じ込めて自由を奪ってもいいという理由にはならないからだ。蛍がかわいそうだから、逃がしてあげようという発想は節子にもないのだ。
この蛍を蚊帳に放って眺めるというシーンは、冒頭のシーンともリンクしている。幽霊となった清太と節子が窓のフレームの向こうに神戸大空襲を見ているシーン。これが火垂る。火が垂れ落ちてくるから火垂ると書くのだが、これも2人が見ている見え方というのは、辛いね、悲しいねではなく、これも蛍であって命が燃えててきれいだねという視点で見ているのだ。
蛍を蚊帳に放って、そのお墓を作る。美しくも残酷な遊びをしているのだが、人間から見た戦争の火垂るの風景も、蛍から見た自分たちを不条理に扱うこの兄妹も等しく残酷で美しいと描いているのだ。
だから高畑監督は、このアニメは戦争反対というテーマではないとずっと言い続けている。ではテーマは何なのか?
公式見解では、困難に立ち向かい逞しく生き抜く素晴らしい少年少女ではありません。決して切り開くことができない戦争という状況の中で、死ななければならない現代の若者の姿です。と言っています。
冒頭のシーンで死にかけている清太におにぎりを置いている人がいるシーンがある。清太の主観で見ると周りは鬼のような人ばかりで、誰も助けてくれないと思えるのだが、ちゃんと頭を下げてお願いすれば貧困の時代に何の見返りもなくおにぎりをくれる人がいるということを最初に見せているのだ。
だから清太がこうなったのは、戦争のせいでもなければ時代のせいでもないとはっきりと見せているのだ。戦争が悪いとか、貧しさが人の心を退ましたという話ではない。
あれほど節子が会いたがっていた母親の霊と2人はなぜ再会できないのか?幽霊となって清太と会うことができるのであれば、そこに母親も出てきてもいいのでは…。清太が会いたがっていた父親も霊となって出てきてはいない。最後は親子4人で再会しても良さそうなのもだが。
岡田斗司夫さんの考えでは、2人は母親がいるような天国にはいけない。だからと言って地獄にもいけない。こういう状況をダンテの神曲では煉獄という。煉獄というのは、天国に行けなく、地獄にも行けなかった人が行く中間的な所で、苦痛によって罪が清められた後に天国に行く場所とカトリックではされている。
清太は煉獄に閉じ込められたので、現在に至るまで自分の過去の過ちと死んでいく妹を見せつけられている。無限の苦悩をわかっている高畑監督は、気の毒にも彼は繰り返すしかないと冷たく書いているのだ。
だから冒頭に煉獄に閉じ込められた清太を描いているのだという。節子はなぜ死ななけれないけなかったのか、清太はなぜ死ななけれなならなかったのか、それがこの映画の一番怖いところだという。この先は有料だったので超気になったけど見れなかったです(笑)。