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大阪環状線ミステリー!?私鉄が夢見て紡いだ路線の名残!

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普段当たり前に使っているJR大阪環状線。実はよく観察してみると多くの駅にミステリーが隠されていた!JR大阪駅には得体の知れない物体が!京橋駅の石垣に秘められたミステリーとは?

 

 

大阪環状線の謎

 1日に100万人以上が利用する関西最大の路線JR大阪環状線。19駅をループ状につなぐこの路線が開通したのは、1961年と歴史は意外と浅い。普段、私たちは何気なく利用しているが実は様々な謎が隠されている。

大阪駅の謎の小屋の正体

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環状線のターミナル駅であるJR大阪駅。その2階の渡り廊下から大阪駅のホームを見下ろしてみると、洗練されたホームに古びた小屋のようなものが建っている。これは一体何なのか?

大阪駅が開業したのは、1874年。大阪と神戸をつなぐ鉄道の起点として、旅客はもちろん多くの貨物列車も集まっていた。当時の物流は、主に船を使用していた。そのため、駅に集められた貨物を全国に届けるためには、大阪湾に停まった貨物船までわざわざ馬車で運び込まなければならず時間がかかっていた。

そこで官営鉄道は、問題を解決するため堂島川から大阪駅につながる水路を掘り、駅に船溜まりを作った。当時の大阪駅は、列車だけでなく貨物船も直接乗り入れていたのだ。しかし、列車から船に荷物を上げる際、人の力だけでは手間がかった。そこで作られたのが、貨物用エレベーターだった。積荷の上げ下ろしを効率良く行うために、このエレベーターは使われていた。

この謎の小屋の正体は、その時使われていた貨物用エレベーターの跡。現在も修復を重ねながら、現役の業務用エレベーターとして使用されている。

京橋~森ノ宮はなぜ高架じゃないのか?

都会の中を走る環状線は、極力踏切を減らすために路線のほとんどが高架になっている。ところが京橋と森ノ宮の間には、高架を使わず地上を走っている区間がある。一体なぜなのか?ヒントはこの区間を走ると見えてくる大阪城にある。

戦時中ここにあったのが、大阪砲兵工廠。太平洋戦争当時、東洋一と言われた巨大兵器工場で、一般人が工廠内部へ立ち入ることはもちろん禁止され、内部が見られないように周囲に高い塀が張り巡らされていた。

それほどの軍事機密だったので、電車の中から内部を覗かれないよう軍部が、この区間だけ高架を許さなかったのだ。

 野田駅にある長すぎるスロープの謎

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大阪環状線、JR野田駅。外回り線のホームには、環状線と貨物線の線路が走っているのだが、その外側に謎のスペースがある。よく見てみると下はアスファルトになっている。その先を見てみると駅を飛び出しスロープに。だがその長さ200m以上とスロープにしては贅沢すぎる使い方。このスロープは一体!?

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それは今から約90年前のこと。当時、東洋一と言われた大阪中央卸売市場が野田駅近くに完成した。鮮魚や青果を新鮮なまま市場に届けるため、大阪市場線と呼ばれる市場直通の貨物路線が作られた。その路線は野田駅で分岐して高架を下り、急な曲線を描きながら大阪市場駅に向かって行った。

 しかし、昭和の後半になると輸送方法が鉄道からトラックへとシフトし始め、大阪市場線は廃線になった。長いスロープは、かつて大阪市場線が走っていたレールの跡なのだ。現在、地上に下りてから市場へと続く線路の跡は、野田緑道という遊歩道になっており、その形は市場線がそうであったように大きなカーブを描きながら中央卸売市場へとつながっている。

京橋駅に潜むホームの違和感

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大阪駅から外回り線で3つ目のJR京橋駅。京阪京橋駅や地下鉄とも近く、大阪、天王寺に次ぐ第三位の乗車数を誇っている。そんな京橋駅の内回り線ホームを見てみると、なんの変哲も無い石垣が積まれている。一方、外回り線のホームを見てみると内回り線の石垣とは色が全く違う。内回り線はくすんで汚れているが、外回り線はまだ綺麗な白色で新しい印象だ。同じ駅なのになぜ石垣の色が違うのか?

1945年8月14日当時、大阪城内にあった大阪砲兵工廠を狙いB29による大規模な爆撃が行われた。大阪大空襲だ。京橋駅は、大阪城の近くにあり付近にいた人々は一斉に京橋駅の下に駆け込んだ。しかし、流れ弾が外回り線ホームを直撃、ホームは跡形もなく崩れ去りその下にいた700名以上が犠牲になった。

その後、駅を再興する際に外回り線だけ新しい石を積み直したため、内回り線に比べてまだ新しいのだ。京橋駅南口の一角には、空襲で亡くなった人々を祀った慰霊碑がひっそりと佇んでいる。

天満駅が天満エリアから遠すぎる謎

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日本一長い天神橋筋商店街など多くの人で賑わう天満。その天満から環状線の最寄り駅は、JR天満駅なのだが…。地図を見てみると天満と呼ばれるエリアから大阪環状線の天満駅だけぽつんと離れている。天満エリアから1km以上も離れ、地域ではむしろ天神エリアにある。一体なぜ、天満駅は天満エリアからこんなにも離れているのか?

そもそも天満とは、大阪天満宮界隈を指していた。さらに天満青物市場が、江戸時代にできるとその周辺が商業地として栄えたため、天満宮から青物市場までの一体を天満と呼ぶようになった。

明治になり、天満エリアに駅建設の話が持ちあがる。大阪駅建設時に住民の苦情にあっっていた鉄道会社は、駅の場所を決めかねていた。大阪駅は当初、交通の便がいい中ノ島の市街地に作られるはずだった。しかし、当時まだ鉄道をよく知らなかった市民が、街中に駅を作ることに大反対したのだ。その結果、計画の変更を余儀なくされ、大阪駅は人気の少ない墓場の上に作られた。

大阪天満宮付近を計画していた天満駅も市民の苦情を避けるために、市街地から約2kmも離れた場所に作るしかなかった。その後、天満エリアに他の駅が続々と誕生。結果的に一番最初にできた天満駅が、天満エリアから最も離れた駅になってしまったのだ。

※うめきたエリアを再開発のために発掘調査をした結果、200対以上の埋葬人骨が見つかり、大阪駅自体は墓場の中心という訳ではないが墓場近くに建てられたと証明された。

 いかにして環状線はつながったのか

大阪環状線が今の形になるまで、そこには国と私鉄の波乱のドラマがあった。

山手線に大阪環状線、どちらも同じループ型路線だが明らかな違いがある。山手線は、29駅をつなぐ環状路線を回り続けるのみ。一方の大阪環状線は、1周する路線は15分に1本しかない。奈良へ続く大和路線や、桜島行きのゆめ咲線、和歌山へ向かう阪和線など多くの路線がダイヤに組み込まれているからだが、なぜこんな違いが生まれたのか?そこには大阪の知られざる歴史が隠されていた!

今から100年以上前、私鉄・大阪鉄道は湊町(現:JR難波駅)と奈良(柏原)をつなぐ路線建設に着手しようとしていた。だが私鉄が路線を作るためには政府の許可が必要だった。

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この時出された条件は、官営鉄道の大阪駅まで路線をつなげろという厳しいものだった。大阪鉄道は、湊町から大阪駅まで直線でつなぐ路線を検討したが地価が高いのはもちろん、市民の反対に遭うため実現は不可能だった。

他のルートを検討した大阪鉄道。西側に迂回することは、工場や造船所が増えていたこの頃、地価が暴騰していて難しかった。そこで東側を迂回するルートを選択した。7年後の1895年、見事に大阪~天王寺路線が開通させた。

当時の大阪の鉄道状況は、大阪鉄道の他に大阪~安治川口をつなぐ西成鉄道や、三重~桜ノ宮をつなぐ関西鉄道などがあり、大阪は私鉄の王国だった。そんな中、最盛期には大阪~奈良・京都・和歌山・名古屋をつなぐ巨大路線を持ち三重県を拠点にしていた関西鉄道は、大阪進出の足がかりに大阪鉄道が作った路線を奪おうと計画していた。

1900年、大阪鉄道が買収される形で関西鉄道と合併。大阪鉄道が苦労して作った路線は、関西鉄道の手に渡ってしまった。しかし、1904年状況は一変する。日露戦争の勃発だ。

兵隊や物資の輸送を簡単にできるように国が私鉄路線を強制的に買い上げる、鉄道国有法が制定される。これによりそれまで私鉄が持っていた路線は、ほとんど官営路線に塗り替えられた。この時、大阪環状線の原型が出来上がる。だがすぐに環状線にはならず、その後40年以上、そのままの形で運用された。

戦後になり大阪は商都として急速に発展し、人口が激増し市電やバスだけでは交通手段が足りない状況になる。すると路線がつながっていなかった大阪西部の人々から、環状線を作って欲しいという声が続出。国鉄はその声を受け、大阪環状線工事を開始した。完成したのは、大阪鉄道の路線ができてから66年後のことだった。

現在、環状線に乗り入れている大和路線は、かつて大阪鉄道が作った路線、そしてゆめ咲線や阪和線、片町線も私鉄が元々作ったもの。大阪環状線の複雑なダイヤの秘密は、かつて私鉄が夢見て紡いだ路線の名残なのだ。