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俺たちに明日はない!ボニーとクライドの愛と殺人の物語

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逃亡する2人の愛と殺人の物語。行く先々で殺人を繰り返すカップルの逃避行を描いた映画「ナチュラル・ボーン・キラーズ」。それを地で行くカップルがボニー&クライドだった。死後、何十年にも渡りボニーとクライドの生き様は映画、書籍、音楽などで美化されてきた。

 

 ボニー&クライドの愛と死の物語

2人の生い立ち

クライドは、1909年3月にテキサス州テリコで、バウロ夫妻の6番目の子供として誕生した。1920年代アメリカは好況に沸いたが、田舎では窮状が続いていた。貧農だった父ヘンリーは、クライドが12歳の時に農業を辞め一家でダラスに移り住み、ガソリンスタンドを始めた。

身長170cmほどで痩せており、あどけない顔をしていたクライドは16歳で学校に行かなくなった。兄バックに倣い、犯罪に手を染め始めたのだ。始まりは、盗品の七面鳥を売ろうとした小さな犯罪だった。兄バックは1週間投獄されたが、クライドは免れた。

クライドはこの件に懲りることなく、小さな盗みを重ね、車も盗むようになる。1929年10月には、複数の強盗に関与し警察で有名人になっていた。警察から隠れていたこの時期にクライドは、運命の女性ボニー・パーカーに出会う。

ボニーは、1910年10月1日生まれで兄と妹がいた。父ヘンリーは、ボニーが4歳の時に死亡し、母エンマはダラス郊外のセメント・シティへ引っ越した。西ダラスでは貧困が広がり、欲しいものは奪い取るという環境でボニーは育った。

ボニーは高校へ通っており、優しく人気があったという。ウェイトレスとして働き、16歳でロイ・ソーントンと結婚する。ロイの素行は悪く暴力をふるい、大酒飲みで家を空けることが多かった。ついには、銀行強盗で捕まりイースタム刑務所農場へ送られた。

2人の出会い

1930年1月、ボニーはまた危険な男と知り合う。それが真の恋人となるクライド・バロウだった。当時、クライドは20歳、ボニーは19歳、ボニーが友人の看病に行ったことで2人は出会った。

だが2週間後にクライドは、逮捕されてしまう。5件の車の窃盗で懲役2年、2件の強盗で12年の執行猶予となっていた。だが入所後すぐにクライドは、脱獄を考え始める。恋するボニーは、それを喜んで手伝った。

ボニーが持ち込んだ32口径のコルトで脱獄したクライドだったが、2週間もしないうちにミネソタ州で再逮捕される。テキサス州に戻され、懲役14年となる。収監先のハンツヴィル刑務所には、ラルフ・フルツがいた。囚人仲間となった2人は、イースタム刑務所農場へ送られる。

イースタムは、別の惑星と言えるほどの場所で、看守たちは囚人たちを殴り虐待していた。囚人を撃ち殺しても問題にならないこの場所は、未熟なクライドにとって想像を絶する場所だっただろう。

過去にイースタムを脱走していたフルツは、看守たちに目をつけられ銃で気を失うほど殴りつけられた。それを見ていたクライドは、拳を握り、首に青筋を立てて看守たちを睨んでいたという。看守たちの注意はフルツからクライドに移り、フルツは殴り殺されるのを免れた。

その直後、クライドは刑務所を脱出することを公言し、仲間を集めて刑務所を襲い看守を残らず撃ち殺すと宣言した。わずか3年後、クライドはこの報復計画を実行に移すことになる。

アメリカ大恐慌時代

早期釈放を求める母親たちの根回しが待てなくなったクライドは、刑務作業を逃れるために囚人仲間に足の指2本を切り落とさせた。だが皮肉なことに母親たちの恩赦を求めた働きかけにより、その2週間後にクライドは松葉杖で刑務所を出ることになった。

ダラスに戻ったクライドだったが、明るく陽気だったその人格は刑務所の生き地獄で破壊されていた。さらにクライドは苦境に立たされる。大恐慌真っ只中だった時代に働き始めたクライドだったが、事があるごとに警察が職場にやって来て尋問され、そのたびにクライドは職を失った。働き口は少なく、遂にクライドは働くことを諦めることになる。

大恐慌でアメリカは打撃を受けていた。4人に1人が失業者だったのだ。路上生活者が増え、労働者は移動し、至るところが大混乱だった。富裕層と貧困層の格差は大きく、農民たちは農場を失った。銀行、鉄道、重工業など大企業に対し、人々は反発し憤っていた。

大恐慌で犯罪の潮流も変わって行った。禁酒法時代に成功したアル・カポネの組織とは違う新たなタイプの犯罪者が生まれ始める。中西部や南西部のクライドたちアウトローは、銀行などを襲ったため、ロビン・フッドだったとも言えるだろう。

当時、同時代のアウトローとしては、ジョン・デリンジャーの方が有名だった。プリティーボーイ・フロイドやマシンガン・ケリーなど国中にならず者が蔓延っていた。大衆は、実生活でも映画でも悪党たちに夢中になっていた。政府はギャング映画の人気を警戒し、アメリカ映画の検閲制度が生まれた背景となった。

悪名高いボニー&クライドだが、決して有能ではなかった。移動しながら強盗し、金がなくなると手近な場所を襲った。10ドルや20ドルのために命を懸け、奪う金は少なかったのだ。

クライドは自身を義賊だと考えていた。罪なき人は殺さないようにして、撃つ相手は主に警官で、警官ですら逃げるために利用し無傷で開放することも多かった。自身の犯罪を英雄的に見せたのだ。

大衆が虚構と本物のギャングに憧れたのは、大恐慌時代の空虚感のせいだと言える。だがボニー&クライドは、情熱的な恋によって唯一無二の存在となる。魅力的で恐れ知らずの恋人たちが、ルールや慣習を破り、あらゆる権力に反抗する様子は、伝説的で人々を惹きつけた。

 クライドの殺人

1932年3月、ボニー&クライドは盗んだ車で初めて一緒に旅に出る。フルツも同行していた。この時、ボニーは初めて強盗を手伝うが失敗し、警察に捕まってしまう。ボニーは2ヶ月間拘置され、フルツはまた服役、クライドは逃げた。

クライドが次に組んだのが、囚人仲間のレイモンド・ハミルトン。2人は繁盛していたジョン・ブッチャーの店を襲うことにするが、想定外の事態が発生し店主を撃ち殺してしまう。この時、店主婦人は2人組の強盗としか分かっておらず、状況証拠しかなかった。だがクライドは、もうダメだと思い死刑になると思い込んでしまう。

1932年6月、ボニーは証拠不十分で解放される。クライドの元へ急いだボニーだったが、クライドの首には250ドルの賞金が懸けられていた。クライドは新聞の一面を飾り、その犯罪も凶悪さを増して行った。

ハミルトンと2人で包装会社を襲い、オクラホマ州に逃走。1932年8月5日の夜、ダンス会場で酒を飲みながら強盗の標的を探していたクライドたちは、保安官たちに飲酒を注意され(禁酒法時代だったため)、意味もなく保安官助手を殺し保安官に重症を負わせた。

クライドたちは車で逃げたが、銃撃戦となり合計3台の車を乗り継ぎ逃走。最後は徒歩で逃げ出した。これが決定的となり、この後クライドは、徹底的に追われることになる。

22ヶ月の逃亡生活

逃走生活は悲惨だった。金が必要になり、より一層強盗に精を出した。逃走中もクライドは家族と連絡を取り、帰郷していた。ハミルトンも家族に会いに帰っていたが、ミシガン州にいる時に逮捕されイースタムで264年の懲役刑となった。

クライドがリーダーの「バロウ・ギャング」は南西部では既に悪名をはせていた。国中に名が知られるのは、1933年3月にバック・バロウが出所した後だ。改心したバックと妻ブランチは、ボニーとクライドと一緒に生活し自首を勧めるはずだった。

だが、事件が起きてしまう。クライドと昔馴染みだったジョーンズの2人は、強盗の下見から帰ってきたところを警察に踏み入られてしまう。近所の人が、彼らを酒の密造者と疑い通報したのだ。

この時、ハリマン巡査とマッギニス刑事は相手が誰なのか知る由もなかった。クライドとジョーンズは、2人をショットガンで殺害、ボニーも自動ライフルを構え撃ち始めた。激しい銃撃戦で、バックも控えていた警官も発砲した。

混乱の中、クライドはブランチ以外の3人を車に乗せ逃走。警官は1人が死亡、1人が瀕死だった。ボニー&クライドは、何度も警察を出し抜いたが、この時発見された写真が強烈な印象を残した。新聞は鮮烈な写真を載せ、ギャングの勝利と報道したため大衆の関心を惹き、より刺激的な物語を求めた。

兄バックの改心は続かなかった。この凶行で運命が決定した。終わりの始まりは1933年6月8日ウエリントンで訪れる。バックたちに会うため車で移動中だったボニー、クライド、ジョーンズは、川を渡る時、橋が壊れていると気がつかず車が落下。何度か跳ねて車は炎上し、炎がボニーを襲った。ボニーは骨に達するほどの大やけどを足に負い、そのケガは完治しなかった。

3人はアーカンソー州でバックたちと合流し、大怪我のボニーを連れて移動を続けた。クライドは長距離の運転を苦にせず、警察無線がなかった時代、州境を越えれば刑事訴追されてないということを知っていた。強盗した後で車で逃げ切るという作戦は、この時代現実的だったのだ。

1933年7月、クライドたちは、プラット・シティの宿に落ち着く。だが警察に通報があり、すぐに完全包囲された。銃撃戦が始まるとクライドは、マシンガンを片手に車を運転し警察の包囲網を突破して逃げ切った。この時、兄バックは頭を打たれて瀕死の状態になってしまう。

だが4日後、警察に発見されて追い詰められる。ボニー、クライド、ジョーンズは逃げたが、バックとブランチは捕らえられて瀕死のバックは入院した。だがそのまま息を引き取る。ブランチは10年間服役した。

ジョーンズはクライドたちと別れ、その後すぐに捕まった。刑を軽くするために、彼は仲間を売る。自分は無理やり引きずり込まれたと主張したのだ。

「クライドに何度も命を脅かされた。クライドは自分勝手で平気で人を殺す。だから私は逃げ出したのです。殺されないために」

1934年1月16日、クライドはハミルトンを助け出し、イースタム刑務所襲撃という夢を叶えた。看守1人が殺され、残りの看守たちは逃げ出した。ハミルトン他4人が脱獄、その1人メスヴィンの救出がボニー&クライドによって致命的な過ちとなる。

2人の最期

殺人や強盗を重ねてもボニーとクライドは、大胆に家族と密会を重ねていた。テキサス・ハイウェイ・パトロールの隊員2人がそれを発見し、バイクで彼らを追った結果、殺される。ボニー&クライドの残忍な殺人に、南西部の全警察官、全保安官が激怒した。昼夜を問わず捜索し、2人を見つけ出すと誓ったのだ。

1934.年5月23日の朝、2人はルイジアナ州でメスヴィン家の近くを車で走っていた。そこには、レンジャーと保安官たちが待ち伏せていた。メスヴィンの農場を頼って来たクライドたちを、メスヴィンの父親が息子のために売ったのだ。

メスヴィンの父親が、車の故障に見せかけてスピードを落とすと、クライドもスピードを落とした。そこに保安官たちが一斉に銃撃、2人は射殺された。人の死体には慣れていた保安官もボニーの体は、弾丸でボロボロでゾッとしたという。

無法者の死体を見ようと小さな町に大勢が群がった。無秩序状態となった町では2人の物の簒奪が横行し、クライドの耳を持って行こうとした者までいたという。強く結ばれた2人だったが、葬儀と墓は別々となった。

ダラスでは、大量殺人を犯した男の遺体を見るために、あらゆる世代と職業の人々が葬儀に詰めかけた。クライドの埋葬地から4キロほど離れた場所にボニーは埋葬され、そこにはさらに大勢が集まった。

ボニーが生前に書いた詩は、最期を正確に予言していた。

“2人は賢くも必死でもない。法が勝つと分かっている。銃撃も受けたし、罪の報いは死だとも分かっている。いつか2人は共に倒れ、並んで葬られる。ひと握りの者には悲嘆、警察には安堵。でもボニー&クライドには死”