平安中期。文化が文化として花開いて来たこの時代。宮中の暮らしを優美に描き出した随筆文学の元祖「枕草子」や、光源氏の愛の遍歴を描いた世界最古の長編小説「源氏物語」など、日本文学史に燦然と輝く傑作が相次いで生まれた。
なぜこの時代に今尚、読み継がれるほどの名作が誕生したのか?そこには、宮中を揺るがした権力争いと女たちの愛憎があった。
女流作家対決!清少納言 vs 紫式部
華やかな宮廷を舞台にはじまる文学バトル
康保3年、著名な歌人の家に生まれた清少納言は、文学の英才教育を受けて育った。正歴4年、時の尊・一条天皇の妃・定子に仕えることになったのも、その高い教養を見込まれてのことだった。
当時、妃と彼女に仕える女房たちは、一種の文化サロンを形成していた。聡明な定子と才気あふれる清少納言は、すぐさま意気投合。主従を超えた絆が生まれていた。清少納言は、定子のことを心から尊敬し心酔しており、定子が何を言っても、何を食べても、何をしても、そのことが素晴らしいと思っていた。
一条天皇もまた、4歳年上の定子の教養と気品を受け入れており、素晴らしい文学青年であったという。2人の仲は本当に良く、理想の夫婦だと後に清少納言は記している。
知的で愛に満ちた宮廷生活。やがて清少納言は、その輝くような日々を書き綴るようになる。これが「枕草子」になる。しかし、幸せな暮らしは長くは続かなった。長徳元年、定子の父であり天皇の補佐役を勤めていた藤原道隆が病に倒れる。
後継者を巡る争いの末、実権は道隆の弟である道長へと移行する。そして権力を得た道長は、わずか12歳の自分の娘・彰子を天皇の妻として送り込んだ。これにより、1人の天皇が2人の皇后を持つことになり、前代未聞の異常事態となった。
道長の狙いは、摂関政治だった。当時の有力貴族・藤原氏は、娘を天皇に嫁がせ男の子を産ませることに血道を上げていた。そうすれば、自らはやがて天皇の祖父となり後見役の摂政や関白として絶大な権力を振るうことができるからだ。
彰子が天皇の子を産むこと。それこそが道長の野望だった。だが、彰子はまだ12歳の子供、権力者である道長の手前、彰子に会いにいく一条天皇だったが退屈を持て余し、すぐに定子の元へ帰っていったという。一条天皇が愛したのは、定子ただ1人だったのだ。
長保元年、定子は待望の男の子を産む。天皇の一途な愛は、定子が翌年世を去った後も変わることはなかった。
どうすれば天皇を我が娘に振り向かせることができるのか?道長は奇策を講じる。彰子の女房として当時、源氏物語が話題となり始めていた才女・紫式部を迎え入れることにしたのだ。
定子の周りに清少納言がいたように、彰子の周りにも知的な女房を雇いれて一条天皇を振り向かせようとしたのだ。清少納言と紫式部はこうしてライバルとなった。2人の背後には、生臭い権力闘争があったのだ。世継ぎを巡る史上空前の文学バトルがはじまる!
暇を持て余す貴族たちの生活
天皇の妃と女房たちによって形成されていた後宮サロン。清少納言は、清原元輔という有名な歌人の娘であり、和歌だけでなく漢詩・漢籍の知識も豊富だった。主人となった定子も母親の高階貴子が男も顔負けの漢詩人だったと言われており、2人の文学的な嗜好はピッタリと合っていた。家庭教師的に彰子についた紫式部とは違い、清少納言は定子と共にサロンを盛り上げるような関係だったのだ。
定子と彰子は従姉妹同士なのだが、当時の権力闘争というのは藤原氏内部の狭い範囲で行われており、兄弟と親戚の中での足の引っ張り合いだった。次々に兄たちが急死し、道長は棚ぼた式に権力を手に入れた。そんな道長にとって定子の存在は邪魔だったのだ。
一条天皇が11歳で元服した時に、初めて入内したのが定子だった。当時の年齢は数え年で、今で言う小学4年生の男の子に中学1年生の妃が来たというカップルだった。年上で知識も豊富な定子に憧れを抱いていた一条天皇。2人は本当にラブラブだったのだ。
そんな一条天皇を我が娘に振り向かせなくてはいけない。娘のサロンに天皇に来ていただかなくてはいけない。それが道長の命題だった。
当時の貴族サロンは、退屈だったと考えられる。身分が高いが故に不自由な生活を強いられており、現代のような娯楽のない時代、何もやることもなく暇を持て余していた。彰子の周りに学識のある女性を集めたのは、勉強させるというよりは、色んな話をして退屈させないで欲しいという思いがあったため。
そこで評判になっていた紫式部を投入してサロンを盛り上げようとした。彰子のサロンは面白いという評判になれば、天皇もやって来てくれるだろうという思惑があった。彰子と天皇が、まず顔合わせできる機会を作るために投入された最終兵器が源氏物語だったのだ。
平安文学バトルが開幕!
紫式部が清少納言に並々ならぬ対抗意識を燃やしていたことは、紫式部日記に明らかにある。
「清少納言ときたら、得意顔でとんでもない人だったようでございますね。あそこまで利口ぶって漢字を書き散らしていますけれど、その学識の程度もよく見ればまだまだ足りない点だらけです。」
歯に衣着せぬ徹底的な攻撃が続く。紫式部は清少納言の何がそんなに嫌いだったのか?例えば、枕草子のある場面を見てみると。
雪がたくさん振った日のこと。定子と女房たちは、戸を閉め切り火鉢の周りでおしゃべりに興じている。ふと定子が聞く。
「少納言よ、香炉峰の雪はどんなかしら?」
そこで清少納言は、御簾を上げさせ外の雪景色を見せる。すると定子は、にっこり微笑んだ。定子が清少納言に『香炉峰の雪』と言ったのは白居易の漢詩の一節。香炉峰の雪は、簾をかかげて見る。を踏まえてのこと。
清少納言は、即座にこれを理解し御簾を上げさせたので定子に称賛されたという一種の自慢話なのである。
当時、最先端の知識だった中国の漢詩、漢文、歴史書に彼女たちはこだわっていた。そうした知識をアクセサリーのように見せびらかして使う清少納言に、紫式部はカチンと来ていたのだろう。
一方、紫式部は自らの教養を徹底的に隠すタイプだった。紫式部日記には、こんな一節がある。
「誰かが男ですら漢文の素養を鼻にかけた人はどうでしょうかねぇ。みな、ぱっとしない方ばかりとお見受けしますよ。というのを聞き止めてからというもの、私は一という字の横棒すら引いておりません。」
紫式部は「私は一という字すら知りません」と気取るイヤな女なのだ。一方、清少納言は、それを「あっ、私知ってる!」とすぐに乗り出して言ってしまうような女だった。
天真爛漫な清少納言と内に籠る紫式部。2人の正確はまったく相容れないものだった。しかし、それにしても紫式部日記が書かれたのは、定子の死から10年後。とうに宮中から身を引いた清少納言にここまで言う必要があったのか?
定子の亡くなった後にも、枕草子は書き続けられており、その中には定子の生前の素晴らしい姿が書かれていた。それを次から次へと清少納言が書いては、貴族社会にバラ撒き、書いてはバラ撒きしていた。
そうすることで、貴族社会も一条天皇も定子のことを忘れることができなくなる。定子の生前の姿を永久保存している枕草子は、彰子と紫式部にとっても大きな壁だったのだ。
宮廷を去った後も圧倒的な存在感を放ち続ける清少納言に対し、紫式部の戦いがはじまる!
対決の結末は?紫式部本領発揮!
紫式部が、清少納言と定子に打ち勝つための最大の武器、それは源氏物語だった。紫式部は、彰子に仕える4年前の長保3年に夫と死別。源氏物語は、その直後に深い悲しみの中から書き始められている。
彰子の父・藤原道長が紫式部をスカウトしたのは、まだ執筆の途上にあった源氏物語が、すでに大変な人気を集めていたからだ。長編小説を書き続けるためには、経済的なパトロンが不可欠だったため、図らずも道長は源氏物語の恩人となったと言えるだろう。
日本最初期の系図集「尊卑分脈」に掲載されている紫式部の名前を見ると、道長妾との記述がある。道長は、紫式部のパトロンとなり当時、非常に高価だった紙や舶来の筆などを惜しげもなく買い与え、源氏物語の執筆を全面的にバックパップしたのだ。
道長の作戦は成功し、源氏物語は一条天皇を魅了した。この源氏物語には1つ、意外な効用があった。それは彰子と一条天皇の心を繋げたこと。同じ物語を男女で分け合って読むという行為は、お互いの心を知ることになる。同じ本を読んで、それを理解できる知識がある、彰子がもう子供ではないと一条天皇に思わせたのだ。
源氏物語が取り持つ縁。寛弘5年、彰子はついに男の子・敦成親王を産む。紫式部が宮仕えを始めてから3年後のことであった。一条天皇は、なお定子との間にもうけた敦康親王を愛していたが、道長一派の説得に押し切られ世継ぎは彰子の子と決まる。
道長は権力闘争に勝ち、我が世の春を迎える。彼の勝利は、源氏物語の勝利とも言えるだろう。清少納言は、この知らせをどこかで聞いていただろうか…
源氏物語の勝因
紙が貴重だった時代、源氏物語が広く大勢の人に読まれていたということはないだろう。30名程度の上流貴族たちが特権として読んでいたと考えられる。また、読むというよりは音読されていたのだろう。
過去の日々を書いた枕草子と違い、男女間の恋愛の話だった源氏物語。今で言う毎週放送される恋愛ドラマのような感覚で、毎回先がわからず気になってサロンに通ってしまうという引きを持っていた。
女性を口説いて回る光源氏に充てられた一条天皇が、唯一口説くことを許された彰子に近づいていったのは自然なことだったのかもしれない。なにしろこの時代の男たちは、とにかく暇だったのだ。
光源氏が稀代の女好きとして描かれたのは、それを求められたからだったのかもしれない。紫式部としては、毎回女を口説くという展開には飽き飽きしていたのではないだろうか。
それがわかるように、後半は主人公が光源氏の息子になり、地味で内気な男が人生を思い悩むという内容になっている。光源氏の話はサロン文化で求められて書き、後半の宇治十帖で紫式部は自分のために書きたいものを書いた。
おもしろ可笑しいだけではなく、1人の人間の苦悩を描いた。このテーマは、現代の作家も常に取り上げるテーマになっている。古典でありながら、現代の物語でもあるのだ。そこに作家としての紫式部の凄みがあるのだという。
結果として大ヒット長編ドラマとなった源氏物語は、道長に絶大な権力を与えることになった。道長が権力闘争に勝利したのは、紫式部のおかげだったのかもしれない。
2人のその後
寛弘8年一条天皇が崩御。後継者は彰子の子・敦成親王と決まり、務めを終えた紫式部は入内を去った。彼女はどんな晩年を過ごしたのだろうか?詳しくはわかっていないが、晩年の和歌によると心は非常に穏やかな境地に至っていたようだ。
“いづくとも身をやる方の知られねば 憂しと見つつも永らふるかな”
辛いとわかりつつも生きながらえていることよ。これからも生きていくという境地に至ったのだとわかる。
一方、清少納言の消息もまた謎に包まれている。何時亡くなったのかということもわかっていない。月輪にある定子のお墓を守っていたという話もある。
唯一確かなこと。それは枕草子と源氏物語が、今も人々に読み継がれているということだ。藤原道長は、その後も2人の娘を天皇に嫁がせ長く権力の座に留まったが、そこに意外な文学が生まれることはもうなかった。
清少納言と紫式部、2人の女だけが千年の時を超え、輝き続けているのだ。