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切り裂きジャックを特定!?世界中で続けられる犯人探しが面白い!

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切り裂きジャックは英国王族だったのか?それともアメリカの精神異常者?地元の医師?正体が明かされる日は来るのだろうか?史上初の国をまたいだ連続殺人事件解明二向け、事実と作り話を整理しながら、新たな証拠や偽装工作を調査する!

 

 切り裂きジャックの伝説

世界中で大衆文化となった事件

1888年の秋、3ヶ月にわたってホワイトチャペル地区で5人の女性が惨殺された。2つの警察組織が手を尽くし、報道は加熱し市民も通りを巡回した。だが犯人は逃げ延びた。

事件から1世紀以上が経つが、切り裂きジャックの正体は今も不明で人々の興味を引く。専門家や犯罪マニアが殺人犯の特定を試み、無数の仮説を展開した。犯人は医者?王族?美容師?病院から逃げた精神障害者?

まるで子供たちがブギーマン(民間伝承における幽霊に類似した怪物)の存在を信じるように愛好家たちは、事件を解決することで犯人特定の功労者として歴史に残ろうと躍起になっている。

素人探偵たちの名前は、その事件と同様に有名だ。彼らは、ただ切り裂きジャックに魅了されている「リッパロロジスト」と呼ばれる者と犯罪史全般の研究家とに分類される。

多くの人が興味を抱く理由は、それが瞬間的な事件だからだという。その一瞬に人々が何をしていたかなど、色々なことが調べられる。誰でも現地に赴き、切り裂きジャックの謎に挑めるのだ。

年月を経て切り裂きジャックは、神話の域に達した。イギリスやアメリカだけでなく、世界中で大衆文化になったのだ。だが事件から1世紀以上が経ち、科学技術と法科学が伝説の犯人の正体をついに暴くのか… 

時代背景

切り裂きジャックがいた時代と場所は、1888年の秋のロンドン、イーストエンドのスラム街だ。ロンドン市民だけではなく、アイルランドや帝政ロシアからの逃亡民、虐殺を逃れてきたユダヤ人などである種、ゴミ捨て場のように人で溢れていた。

失業率が高く、人口は過密状態。裕福なウエストランドとは大違いだった。ウエストランドから3キロほどの場所に絶望的な貧民街があり、人々が必死に生きていた。人口密度と劣悪な衛生状態で、性感染症や犯罪のせいで死亡率は高かった。治安が悪すぎて警官も危険な通りに入るのは怖がっていたという。

イーストエンドの現実は厳しく、多くの女性が売春に走った。女性たちに職はなく、無学でアルコール依存症で男に捨てられ虐げられていたのだ。彼女たちにとって売春は、生き残る手段だった。宿の外は薄暗い通りで、商売の性質上ホワイトチャペル地区で働く娼婦は、連続殺人犯の格好の餌食になった。路上にいて、その職業がら見知らぬ人についていく。暗く、人気のない所へ行くのが彼女たちの仕事の特徴のため連続殺人犯が狙いやすかったのだ。

連続殺人事件の発生

1888年8月31日未明に切り裂きジャックが、第1の殺人を犯した。43歳のメアリー・アン・“ポリー”・ニコルズだ。その夜稼いだお金をお酒に使ってしまった彼女は、宿主に「すぐ稼いでくる」と告げ店を出て行った。その1時間後、ポリーの遺体が見つかった。発見された通りはバックス・ロウ、ノドを左から右に裂かれ気管と脊髄も断ち切られ、腹部も切り開かれていた。検視を行った警部は、内臓が取られていることに気がつき、この事件の異常性が露呈した。

ポリーの死から2週間足らずで次の殺人が発生。アニー・チャップマンが1888年9月8日に変死した。彼女も大酒飲みの40代の娼婦だった。彼女もノドを左から右へ裂かれて内臓が取り去られており、腸の一部が肩に掛けられていた。このことでポリーの殺人と同一犯だと考えられた。

凶器の種類や臓器の取り出し方から、犯人は医者などの解剖学を知る人物かと思われた。こうして犯人は、医者だという説が世間に出て脚光を浴びた。新聞はこの機を逃さず、2つの殺人事件の生々しく卑劣な詳細を報じた。人々の恐怖を煽った新聞は、独自に邪悪な男“レザー・エプロン”という容疑者まで生んだ。

ラジオやテレビがなかった当時、識字率の上がった市民と衝撃の殺人事件により、新聞が市場を席巻した。これにより国内だけでなく、世界中に事件が伝わり切り裂きジャックは世界的犯罪者となった。

 世間に不安が広がり報道が過熱する中、新聞社に犯人を自称する人物から一連の手紙が届いた。その中の“親愛なるボス”という手紙に切り裂きジャックの名はあった。当然、犯人本人からの手紙である可能性は低かった。だが警察はこれを軽視せず、手紙をコピーして配布し筆跡に覚えがある者を募った。だが残念ながら、それらの手紙はイタズラを生み時間と人手が奪われた。

行き詰まる犯人捜査

当時、法科学はなく事件の解決に必須とされる指紋さえ使われるのは数年後。現在では、DNA鑑定、繊維鑑定、血液型鑑定などが使える。だが当時それらはなく、目撃者らしき人に話を聞くしかなかったのだ。

路上生活者たちから話を聞くために潜入捜査も行われたが、スラムの住人が協力的とは限らなかった。警察を信用していない人々がほとんどで、名乗り出る者などいなかったのだ。最終的に謝礼金が提示されると約1万4000通の手紙が届き、事態はさらに混乱した。

当時は新聞社と警察の関係が希薄な時代で、警察は作戦が漏れることを警戒し、新聞はそんな警察を批判した。新聞記者たちは、記事を公表することで目撃情報が出てくることを期待し、多くの点で警察を助けていると自負していた。

しかし、メディアは役に立たないと考えていたロンドン警視庁は、制服警官を増員する。だが慣れない場所で働く警官たちは、役に立たなかった。袋小路や裏通りだらけで、あちこちに抜け道があり、犯人が警官を撒くことくらいわけがなかったからだ。

自分たちを守るために事件の影響を案じた地元の商売人が、ホワイトチャペル地区の自警団を設立する。自警団員たちは巡回し、容疑者候補を監視した。だが自警団と容疑者のやり取りは混乱に輪をかけた。そんな厳戒態勢だった現地で、切り裂きジャックは大胆な行動に出る。

 浮上したユダヤ系との関わり

前回の殺人から3週間後2人の女性が殺された。エリザベスとキャサリンが死亡した二重殺人事件だ。エリザベスは午前1時ごろに殺され、それから約1時間後にそこから1キロくらいの場所でキャサリンが殺された。

エリザベスの事件では、遺体は切断されていなかった。正確には分かっていないが、馬車の男(死体の発見者)が現れて犯行を邪魔されたと解釈された。犯行途中に馬車の男を聞いた犯人が、見つかるのを恐れて逃げたというのだ。だが後年になって彼女を殺したのは、切り裂きジャックではないという説も上がっている。

彼女の死体には、切り裂こうとした形跡もなかったのだ。さらに一般的に連続殺人犯が、犯行現場のすぐ近くで犯行に及ぶことはないという。真の被害者を見極めるのは、犯人を突き止めるのと同じくらい難しい。

だが二重殺人の2件目に異議は少ない。1件目の殺人では満たされず、すぐに次の獲物を探したのか?それがキャサリンだった。彼女は恐ろしいほど残忍に切断されていた。だが切断以外にもキャサリンは典型的な被害者像と一致していた。大酒飲みで中年の娼婦だったのだ。

この事件までの担当は、ロンドン警視庁だった。だがキャサリンが殺された場所は、ロンドン市警察の管轄だった。こうして2つの警察組織が事件を捜査することになる。共同捜査は人手が多くなるが、流儀や捜査方法に意見の相違が出てライバル意識を刺激した。

キャサリン殺害現場近くで、血のついたぼろ布と壁に書かれた文字が発見される。この落書きの内容が物議を醸すことになる。“ユダヤ人は罪なくして非難されはしない”

当時、反ユダヤ主義が盛んでユダヤ人住民への暴動が危ぶまれたため、ロンドン警視庁はその情報を恐れた。市民はイギリス人が犯人とは思えず、近所のユダヤ人移民の仕業だと考えた。だが証拠という意味では、一連の殺人や犠牲者に関する言及はなく大したものではなかった。

数週間後、自警団代表ジョージ・ラスクに“地獄より”と書かれた手紙と犠牲者のものと思われる腎臓が入った荷物が届いた。新聞各社は、キャサリンの腎臓だと推測した。イタズラとも思えたが、十分な証拠もあり警察は本物の可能性も考えた。だが当時の法科学では、これがキャサリン本人のものだとは証明できなかった。

この手紙が届いて間もなく、最後にして最悪の殺人が決行された。5人目の被害者メアリー・ケリーだけが室内で殺されたのだ。切り裂きジャックは最も残忍な犯行に及び、メアリーの皮膚を剥ぎ内臓と体を切り刻んだ。凄惨な現場は、手付かずの状態で写真に納められた。(画像検索で出てきますが凄惨なので見ないほうがいいです)

メアリーが最後の犠牲者と言われるが、犯人が殺人をやめた理由は不明だ。さまざまな説がある。逮捕されて精神科に入れられた説。単純にやめたという説。切り裂きジャックの恐怖は、メアリー殺害で幕を閉じたと言われる。事件が終わっても犯人探しは1世紀以上続いてきた。そして今も史上最大の謎の1つだ。

犯人像のプロファイリング

切り裂きジャックの凶行から100年後の1988年、FBIのジョン・ダグラスが、FBI行動科学科のロイ・ヘイズルウッドの協力を得て、1つの犯人像を提示した。彼らは事件を調べ、心理学的、行動学的観点から人物像を割り出した。

その連続殺人犯は、計画性がなく孤立していて社会不適合者だったという。分析された犯人の母親像は、支配的でアルコール依存症で誰とでも寝るような母親。そんな母親に捨てられたと感じていたなら、切り裂きジャックの娼婦への怒りも合点がいく。

ダグラスたちが描いた犯人像で、容疑者が絞れたと思われた。だが100年越しの犯人像に関して疑問を抱く専門家もいる。ダグラスたちが、1888年当時の市民生活に精通しているとは限らないからだ。

ダグラスたちが描いた犯人像は、当時のイーストエンドやロンドン市民の大半に当てはまった。極貧で母親が娼婦だったという30歳くらいの白人男性など山のようにいたのだ。これでは犯人の特定などもはや不可能だと言える。

だが行動証拠から、犯人の人物像が明らかになる。2006年ロンドン警視庁は、凶悪犯罪の分析にコンピューターを活用。電子顔識別技術と呼ばれるもので、犯人のモンタージュ写真が公開された。

DNA検査による犯人の特定

2014年ラッセル・エドワーズが、真犯人に迫った本を出版した。起業家の彼が犯人に興味を抱いたのは、2001年の映画「フロム・ヘル」の影響だという。ジョニー・デップ演じる警部が、切り裂きジャック事件を追うという内容だ。

エドワーズは事件に入れ込み、2007年に被害者キャサリン・エドウズの持ち物だというショールを購入する。ショールから採取したDNAから、アーロン・コスミンスキーが犯人だと著書で発表した。

だが問題は、ショールの信頼性だ。キャサリン・エドウズの持ち物リストにはないものだという。多くの人が触れて来たそのショールから採取したDNAに証拠能力があるのか?世界中の専門家たちが彼の主張を否定し、論争は盛り上がりを見せた。

だがその本は、切り裂きジャックが今でも立派な産業であることを明らかにした。コスミンスキー犯人説の真偽はともかく、切り裂きジャックへの世界中の関心が健在だと証明したのだ。

犯人は誰だったのか?

切り裂きジャックの殺人事件以降、信頼性の高いものから、かなり怪しいものまで何百という容疑者が挙げられた。フィンセント・ファン・ゴッホの名も出た。画家のウォルター・シッカートは、日本でも「検屍官」シリーズで有名な米国女流推理作家のパトリシア・コーンウェルが指摘した。ヴィクトリア女王の孫アルバート・ヴィクターも容疑者とされた。

フランシス・タンブルティも興味深い容疑者だ。この女性嫌いの偽医者は、女性全般を見下していたが、特に娼婦を毛嫌いしていた。だがリッパロロジストたちは否定的だ。口ひげが立派すぎ、当時にしては背が高く人目を引く容姿をしていたからだ。

容疑者全員の共通点は、確たる証拠がないこと。少なくとも1000人の容疑者が聴取された。そして、その中で有力とされる容疑者たちがいた。だが彼らと切り裂きジャックの関連を示す物的証拠はなく、あるのは状況証拠だけだった。

1894年犯罪捜査部長だったメルヴィル・マクノートンが容疑者を絞り込む。ホワイトチャペル殺人事件の犠牲者は5人だけだと記録し、容疑者の名前も3人あげた。モンタギュー・ドルイトとマイケル・オストログ、アーロン・コスミンスキーだ。

オストログは、詐欺師で変装や偽名で知られ外科医を自称した。マクノートンは彼を“女嫌いの殺人マニア”と記録した。だが当時、オストログはフランスの刑務所にいて犯行は不可能。

ドルイトの家族は、彼が犯人だと考えていたらしい。メアリーの事件から数週間後、彼はテムズ川に身を投げ容疑者に浮上した。ドルイトは自殺し、容疑者となった。だが彼は現場と無縁でアバーライン主任警部は、彼を候補から除外した。裏付けが何もなかったためだ。

ユダヤ系ポーランド人コスミンスキーは、1880年初頭に家族でロンドンに来た。事件が起きた時は23歳で、その数年後に精神障害の兆候を示していた。彼はホワイトチャペルに住む美容師で、姉にナイフを突きつけ1891年精神科病院に入院する。

事件当時、コスミンスキー家は警察の聴取を受けた。彼は“声”に導かれていると話しており、幻聴の症状があった。警察は、コスミンスキーを拘束したが有罪までは証明できなかった。コスミンスキーは家族の元に帰されたが、警察はその後も監視を続けた。だが家族はずる賢く、彼を精神科病院に入院させた。彼を裁判沙汰から遠ざけようとしたのだ。精神障害だと認定されれば、証言能力なしと見なされるからだ。

事件から20年後、彼は再び容疑者となる。ロンドン警視庁副総監だったロバート・アンダーソンが本を書いたためだ。1910年、彼は自身のキャリアを振り返る回顧録を出版し、事件について説明している。当時、警察は犯人を把握し数年間、収監していた。その容疑者が貧しいユダヤ系ポーランド人で精神科病院に入ったことを記している。

1987年、ドナルド・スワンソンが持っていたアンダーソンの回顧録が出てきた。スワンソンは事件当時、ロンドン警視庁の警部だった。彼はアンダーソンの回顧録の余白に補足情報を書き込んでいた。しかもコスミンスキーと容疑者の実名を出している。つまり、事件を捜査した者もしなかった者もコスミンスキーが有力な容疑者だと知っていたのだ。

コスミンスキー説が有力だが、さらに調べると人違いだった恐れが発覚する。1888年12月ユダヤ系ポーランド人が通りをふらついていた。彼は判断能力を失っており、連行されると凶暴化した。病院は名乗らない彼を“デイビッド・コーエン”と記録した。身元不明のユダヤ人の呼称だ。

ユダヤ系ポーランド人移民のアーロン・コスミンスキーが、殺人マニアであるデイヴィッド・コーエンだと混同されていたのかもしれない。彼も同じ精神科病院にいたのだ。コーエンはその暴力性から、他の患者から離され拘束衣を着ていた。一方、コスミンスキーは人を殺すとは思えず、精神科病院の記録にも他人を傷つけなかったとある。

警察上層部2人の記録に反し、コスミンスキーは1919年に死ぬまで精神科病院にいた。スワンソンが残した1910年のメモには、コスミンスキーは精神科病院に入った後にすぐに死んだとも書かれている。だがこの時、コスミンスキーはまだ生きていた。マクノートンの記録にも別の間違いがあり、候補は1人だけとなる。

デイビッド・コーエンだけが“精神を病んだユダヤ系ポーランド人”というアンダーソンの主張と一致するのだ。1988年に事件を調べたジョン・ダグラスも後に、コーエン犯人説を支持した。

そして伝説となった

切り裂きジャックは、計画性のない連続殺人犯。そういうタイプの連続殺人犯は、標的を攻撃する時に暗闇から現れ強襲する。逃げ道や戦略はなく、遺体を隠すつもりもない細部まで考え抜かれた計画的犯行ではないのだ。

切り裂きジャックは、おそらく妄想型統合失調症か何らかの精神障害だったのだろう。社会に適合できなかったと思われ、独身で犯行現場のすぐ近くに住んでいた。ホワイトチャペルの住民なら極貧だったはずで、その地域社会を熟知していた。

だがやはり、どの解釈も付随的なもの。調査が進んでも切り裂きジャック熱は健在で、思いもよらない関連ビジネスが存在し、書籍、映画、テレビ番組が続々と出ている。ロンドンの切り裂きジャックツアーは、大衆の飽くなき妄想を満たし続けている。2015年計画ではイーストエンドの女性のための博物館だったものが、切り裂きジャック博物館として開館した。

そして2015年、キャサリン殺害現場にあったというショールが、450万ドルで売られると報じられた。切り裂きジャックは事実と作り話が混同される伝説的な事象となったのだ。証拠も情報も一切存在しないから犯人は、絶対に捕まらない。人々は永遠に憶測や妄想で犯人探しができてしまうのだ。

残忍性と性的なテーマ、人物像、伝説となる要素が揃っている切り裂きジャックの物語は、時代を超えて今も人々の関心を買っている。