今年の夏もまた、ジブリ作品の放送が始まりますね。そこで今回は「天空の城ラピュタ」について岡田斗司夫さんが語っているのをまとめてみました。
本当はエロい?天空の城ラピュタ
天空の城ラピュタという作品
天空の城ラピュタという作品は、ルパン三世カリオストロの城と同じ構成になっている。悪漢の下から1人で逃げ出したお姫様が、男に救われる。だが、悪漢たちにお姫様を奪還されて男は一度、お姫さまを諦めてしまう。
だがその後に仲間たちとお姫様を取り戻すために戦い、すでに滅んでしまった都市を発見する。このように2つの作品の構造は非常に似ている。これは、宮崎監督がスティーブンソンの「宝島」のような古典児童文学作品を作りたかったからで、宮崎作品はこの「宝島」のメインプロットの応用で出来ているという。プロットとは、出来事の原因と結果でストーリーラインとも呼ばれる。
そのため、宝島における海賊シルバーはこの作品では誰なのだろうか?と考えると宮崎作品は理解しやすくなる。宮崎監督が天才が主人公であるアニメ作品に対して否定的なのは、このためだ。ラピュタはアンチガンダム、アンチルパンを掲げて作ることになったのだが、普通の男の子が主人公では、話が動かなかったという。
敵は、軍隊を顎でこき使う情報部のキレ者ムスカ。それに対抗するのは、歴戦の女海賊ドーラ。そんな戦いの中に女の子を守るという動機だけで12、3歳くらいの男の子が入ってきても勝てるはずがないのだ。ここから宮崎監督の苦悩が始まった。
初期案を見た鈴木プロデューサーと高畑監督は、これはムスカが主人公の物語なのか?幼い時から親にラピュタの物語を聞かされていたムスカは、家とラピュタ人の再興を目指してラピュタ王家の血を引いている女の子を見つけ出し誘拐する。
その女の子に嫌われてしまったムスカは、女の子の気を惹こうと色んなことをするのだが、若い男の子に女の子を奪われたりしてしまう。そんなこんなで栄光を取り戻したと思ったら、最後に女の子に裏切られて全てを失ってしまう。
そういう内容のいい映画だけど、どうするの?と言われてしまう。つまり、なんでもないような普通の男の子を主役にするのは、かなり無理があるということなのだ。その結果、物語では王家のお姫様と普通の男の子が滅びの呪文「バルス!」を唱え、言わば心中してしまうという展開になってしまった。
ナウシカや宇宙戦艦ヤマトのラストで行われた自殺行為と同じパターンになってしまったのだ。ではなぜ、そのようになってしまったのかを考えていこう。
ラピュタ6つの魅力
- 不思議なエロス
- 矛盾した文明批判
- 説明されないキャラクター
- 謎の産業革命
- 男の成長物語
- 人間・宮崎駿
不思議なエロス
ラピュタにエロいシーンなんてあった?と思うかもしれませんが、実はあるのだ。それは、タイガーモス号から切り離されたパズーとシータが乗った凧がなんとかラピュタにたどり着いたシーン。
【画像】© 1986 Studio Ghibli
なんかとラピュタにたどり着いた2人は、大喜びして転げまわる。紐で繋がれた2人は、顔を見合わせて普通ならキスするのではないですか?と雑誌の編集者に聞かれた宮崎監督は、「いや、もうやってるでしょ」と答えている。
そんなことをいちいち描かなくても、映画の中できちんと表現しているという。宮崎監督は、アニメーターに凧の中でシータに抱きつかれているパズーの表情は、女の子に後ろから抱きつかれて胸を背中で感じている。だから気丈に振舞わなければならないと思って余裕を見せる男の顔なのだと説明して書き直させたという。
宇宙戦艦ヤマトのように観客に向かって2人が抱き合い、当人同士は顔を俯けているようなものではダメだと答えている。宮崎監督は、安直なことを何よりも嫌う人間なのだ。
エロいことはちゃんとやっている。それをわからないのは見ている方の責任だ。自分は、エロをそのままやるようなバカなことはしないというのが、宮崎監督の主張なのだ。ラピュタのテーマについて「自然に還れ」「人は土を離れて生きていけない」などと言われているが、それは登場人物の言葉であって映画のテーマではないのだ。
最初のシーンでシータが空から降りてきて、それをパズーが受け止めるシーン。シータがふわっと降りてきて、パズーに受け止められると肉体化して重くなる。この時、シータの胸は、かなり小さい感じに描かれている。
シータが自分のことは忘れてと告げパズーと別れた後、「我を助けよ」というおまじないを唱えた直後に胸の飛行石が光出します。この時、胸の膨らみがはっきりとわかるように影が落ちる様子をわざわざ作画にしている。
エロいことを考えたら見ている方が悪いという罪悪感を感じさせるような描き方は、やはりうまく、これが宮崎監督のやり口なのだとか。シータにわざとダブダブの服を着せて、飛行石の力で服が激しく揺れる。この時、二の腕から肩まで見せることによってシータが下着を着けていないのかもしれないと思わせている。
これはエロいシーンだとは見て欲しくない、でも見ている人にはドキドキしてもらいたいと思っているからだという。こういうエロい描写は、必ずゾクゾクするような怖いシーンでやるのだという。
冒頭にシータの乗る飛行船に海賊のドーラたちがやって来て、それに気がついたシータが窓から逃げるシーンでも、下から風が吹きあげてきてシータのスカートが巻き上がり太もものあたりまで見える。これも、シータが生きるか死ぬかのシーンのため、エロく見えない。
見えている方が「パンツが見えそうだ」と思う、罪悪感を感じる。これこそが、罪悪感がエロいという考え方なのだ。「これはエロいシーンではありません」という壁を作ることで、それを乗り越えてまでエロく見てしまう見る側の気持ちを利用してエロいシーンを作っているのだ。そのため、エロいシーンというのは必ずゾクゾクするような怖いシーンで出てくる。
女性の凄さを描く
空から降りてきた時と、ラピュタに着いた時のシータの胸の大きさは明らかに違います。それは、シータがもう女というものを利用しているよね、ということを表している。宮崎監督は、エロだけではなく「女性の凄さ」というものをちゃんと描く作家なのだ。
タイガーモスの中で料理をするシーンでは、シータがかわいいと次々に現れたドーラの息子たちを結果、全員こき使う。ここで重要なのは、男たち全員が台所で手伝い始めたことをシータがどう思っているのかということ。
宮崎監督は、この時のシータの表情を見せていない。普通のアニメならば、男たちをこき使っちゃった(。・ ω<)ゞてへぺろ♡な表情や、本当に何も感じていない天然キャラというような表情が描かれる。
だが、このシーンではシータの後ろ姿しか見せていない。すると見ている方は、シータは男たちにモテているのをわかっている上で、男たちをこき使っているんだなと暗にわかる。だが仕事をパズーに頼むことはない。なぜなら自分が惚れているから。つまりシータは、自分が好きになった男はこき使わずに、勝手に自分のことを好きになったどうでもいい男たちをこき使うということをやっているのだ。
その辺の宮崎監督の女性に対する本音というのは、カリオストロの城にも現れている。カリオストロ伯爵がクラリスに向かって「さすが血は争えんな。もう男を操ることを覚えたか」と言うシーン。見ている方は、伯爵深読みしすぎ、クラリスはそんな娘じゃないと思うのだが、その言葉を全く否定しないクラリス。
それを含めて「これ何回目のことなの?」とついつい考えてしまう。登場シーンで勇ましく車を運転するクラリスと、中盤以降のルパンの前で泣いているだけのクラリスでは辻褄が合わないのだ。つまり、クラリスはルパンが来たから弱い女の子になった。
裏を返せば、ルパンが来るまでは強い女の子だったのだ。さらにルパンが去る時に「泥棒をやめて一緒に暮らしましょう」ではなく、「私もあなたについて行って一緒に泥棒します」と言うのだ。そういう意味では、クラリスはわりと“したたかな女”という部分もあるのだ。
もちろん、シータが男たちを利用していると断言することはできない。だが、宮崎監督は、ここでシータの表情を見せないことによって「女って凄いよね」ということを表現している。ドーラのしたたかさはよく語られるが、そのドーラから「あの娘は将来、私みたいになるよ」と言われたシータが本当はどんな女の子なのか?
劇中のシータは、あくまで観客の男の子たちが胸を焦がして憧れるような存在だから、わざわざそんなことは描かない。でも後ろ姿を描くという意地悪はしているのだ。これが宮崎駿の作劇法というかエロスに対する考え方なのだ。
2、3は有料放送でした(´・ω・`)ショボーン。4以降の放送は、1つの記事にするとボリュームがありすぎたので2つの記事に分けました。次回はSFの観点から見たラピュタ。ナディアとの関連などについてなど