ドラマで教師役の陣内孝則が推定家賃70万円の一軒家でひとり暮らしをしていた時代。日本が浮かれまくっていたバブル時代をディープに紐解く。大人たちの楽園ディスコ、伝説のモンスタークラブ&学生サークル一晩5000万円荒稼ぎ!最強ステータス、2LDK17億円マンション、4億円超えのゴルフ場会員券など
日本が浮かれまくっていたバブル時代
日本経済が最も虚ろに輝いていた時代
10代、20代の若者もバブルという言葉を聞いたことがあるだろう。1986年~1991年の4年3ヶ月、日本は超がつくほどの好景気に沸いた。当時のジャパンマネーはアメリカさえも震撼させた。
三菱地所は、約2200億円でマンハッタンのロックフェラーセンターを買収。SONYが約4800億円でコロンビア映画を、松下電器も約7800億円でユニバーサル映画を買収した。有り余る資金力を持った大企業は、リクルート対策にも前代未聞の手法を繰り出す。4Sと呼ばれた囲い込みだ。
優秀な人材を確保するために寿司(Sushi)やステーキ(Steak)で学生を誘い出し、これにサウナ(Sauna)やソープランド(Soap)を加え、食欲と性欲の両面から攻める極道ばりの接待で学生たちを手懐けた。
嘘だ!と思われるかもしれないが、これは日本を代表する一流企業の一部が実際に行った戦略なのだ。ジュリアナの話はもう聞き飽きた。日本を飲み込んだ狂った季節の実像をご紹介します。
ステータス有頂天から見る日本経済の虚ろな輝き
ゴルフ場会員権
1987年、国民の余暇活動の充実や地域振興をうながそうとする法律が施行された。娯楽推進法とも言える「リゾート法」だ。これを受けてリゾートマンションやテーマパーク、ゴルフ場などが続けざまに建設された。
注目すべきは、ゴルフを巡る珍現象だ。バブルで懐が潤った突発性成金たちがこぞって欲しがったのが「ゴルフ場会員権」。尾崎将司の後ろ髪に心酔した中年たちは、それまで高嶺の花だった会員権に触手を伸ばす。
その価格は見る間に高騰した。政界の重鎮ご用達しだった小金井カントリー倶楽部では、それまで1000万円だった会員権が、なんと4億5000万円にまで跳ね上がったのだ。参考までに主要カントリー倶楽部におけるバブル期の会員権価格を見てみよう。
当時、1億7000万円だった有名カントリー倶楽部は、現在65万円と99.6%OFFとなっている。バブルがいかに荒唐無稽な時代だったかがよくわかる。
スキー場の熱狂
ゴルフ場の会員権を手を入れて中高年が有頂天になったバブル期。若者たちを洗脳した集団がいる。その名はホイチョイ・プロダクション。ホイチョイが世に送った映画「私をスキーに連れてって」は、見る者を夢物語に誘って大ヒット!
ゲレンデで出会った男女が恋に落ちるというラブロマンスの定石を踏みつつ、シンクロ率の高いパラレル、トヨタ・セリカによるクレイジードライブなど、ヒットとリアリティは必ずしもイコールではないことを証明した。
それでも幻想を掻き立てられた若者たちは、これぞステータスと意気込んだのである。週休2日制の導入が広がり始めていたことも手伝って、週末のバスツアーでゲレンデを目指す若者たちが激増した。
映画に洗脳された若者たちの受け皿となるべく、西武グループは苗場のスキー場にホテルを増設。さらに全国8か所に同様のホテルを展開した。後を追って、JR東日本がガーラ湯沢を、東武鉄道が会津高原だいくらスキー場、驚いたことに日本船舶振興会、松下電器グループ、ヤマハ、中京テレビといった異業種までも続々とスキー場経営に参入したのだ。
バブルの狂乱が生んだスキー場は、シーズン中どこも凄まじい混雑に陥った。リフト待ち3時間は当たり前。ゲレンデに流れる松任谷由実の美声でさえ、極寒に震える客の耳には届かなかった。
しかし、そこでくじけないのがバブルの雄。スキー場が混んでいるなら近場に造ってしまえと総工費400億円をかけて人工スキー場をオープンさせた。かの有名なSSAWS(ザウス)である。だがその栄光は一瞬だった。わずか数年で閉館、淡雪の如く消えていった。
大学生サークルの台頭
スキーブームに最も勢いづいたのが、大学生である。有頂天になりきれなかった彼らが自らステータスを手に入れようとしたのは、ある意味で自然な成り行きと言っていい。大学生は自分たちの独立国家を求めて、テニス合宿、スキーツアーなどを主催するサークルを立ち上げた。
そんな中、某有名大学の学生が六本木のディスコで遊ぶことを目的に、他の大学のサークルと合同である学生団体を立ち上げた。それが20もの大学サークルが集まったインターカレッジ組織「STROPS(ストラプス)」だ。
彼らは、六本木のクラブ3店舗を借り切ってディスコパーティーを開催し、大成功を収める。彼らの力を目の当たりにした某有名メーカーが直ちに反応。学生たちに協賛金を提供することでパーティーはさらにゴージャスになったのだ。
London Clubbing Partyは、実に13店のディスコを会場に開かれた。ゲーム大会やミスコンも開かれ約5000人の動員に成功する。会場では、某有名メーカーのサンプル商品が気前よく配られた。追い風に乗った大学生たちは、EPIC、GALA、KIAIなど次々と新たな団体を設立。パーティーの規模はどんどんと巨大化していった。最高ではGALAが35店舗を貸切、約1万5000人を動員した。
チケットが1枚3500円だったので、1回のパーティーで5000万円以上のお金が動いていたことになる。だがイベントサークルの運営で手に入るステータスには、やはり限界があったと言わざるを得ない。
不動産の高騰
バブルのただ中には、途方もない夢に踊った世界がある。それが不動産だ!当時のマンション価格を見てみると、小田急線代々木上原駅から徒歩5分で築年数10年73.98㎡で3億9800万円。JR品川駅から徒歩5分、築年数7年、121.32㎡で出張ビジネスマンに最適9億5800万円。JR田町駅、慶応大の学生さんにおすすめです。11億8000万円。
思わず絶句する価格の物件が、当時は飛ぶように売れていたのだ。当時は、金余りの時代と言われており、運用難に困った資金が銀行に大量にあった。そのため、銀行はその資金を貸したくて仕方なかったのだ。これが得体の知れない投資家や過去になんの実績もないような企業が、不動産を買い漁る行為につながった。
トレンディドラマの功罪
さすがに一般市民とは縁遠い高額物件だったのにも関わらず、さも当たり前に住めるかのように地方の視聴者を勘違いさせてしまった罪深い番組が送り出される。それが「トレンディドラマ」だ。
フジテレビが製作したトレンディドラマ「愛し合ってるかい!」の設定を例に取ろう。主人公の高校教師・陣内孝則は、こんな部屋に暮らしていた。夜ごと同僚たちと囲炉裏を囲んでの会食。ここは、渋谷区代々木上原辺りの一軒家と思われる。当時の推定家賃は70万円程度だった。
同じ月9の枠で放送された「東京ラブストーリー」も例外ではななかった。当時の大学生の現実に近いとされた江口洋介の部屋は、ざっと50㎡ほどのワンルーム。しかも西新宿の高層ビル郡を間近に見渡せる立地である。コンクリート打ちっぱなしの壁に、黒を基調とした家具が並び、差し色に観葉植物の緑が効いていた。テレビにコンポ、コードレスフォンと当時最新の黒い家電を揃え、バブルの王道が完成する。
当時の若者たちがトレンディドラマをマネようとしたことは言うまでもない。だが某おしゃれ雑誌を見ると現実は厳しかったようだ。バブルとは現実との乖離を忘れさせ、人を有頂天にさせた虚ろな時代だったのだ。
おとぎ話も出現させた日本経済の虚ろな輝き
DCブランド、TCブランドの乱立
バブルとはおとぎ話の時代でもあった。「眠れる森の美女」ならぬ眠らぬバブル女子がシンデレラを演じた舞台は六本木だ。女性たちは、ワンレングスのお姫様に変身し、アッシーの馬車でユーロビートの舞踏会に繰り出した。
背徳感を覚え、踊り明かした真夜中の12時。風営法の鐘を聞いても家に帰らず次の店に流れた点と、ハッピーエンドが待っていなかった点だけが、本家シンデレラとは少し違う。
おとぎの国に足を踏み入れるには、それなりのファッションも必要だった。その通行手形は、「デザイナーズ・アンド・キャラクターズブランド(D&Cブランド)」。服装による差別が厳然と幅を利かせ、ファッション次第では、入店を断られる店も少なくなかった。
当時、すでに確立されていたDCブランドは、日本のデザイナーが立ち上げた高級ブランドの総称である。そこに存在した一様の定義は、都市部でしか購入できず、例え売れ筋でも決められた数しか販売しないことで高いプレミア感を誇っていた。
TAKEO KIKUCHI、Men's Bigi、JUN MEN、MEN'S MELROSE、NICOLE、JUNKO KOSHINOなどがその代表格と言えよう。この時期、メンズだけでも玉石混交100以上のブランドが乱立、果たしてDCと言えるのか線引きさえも困難を極めた。
その混乱に乗じてあの足袋メーカー福助までも業界に参入。ダウンアンダーバイ・ケン・ドーンなる雰囲気ブランドを立ち上げる珍事が起きている。一方でDCブランドの中には、服飾と全く畑違いのマーケットに打って出る者もいた。
VIVAYOUがHONDAと組んだ原チャリ。MICHIKO LONDONが不二ラッテクスと組んだコンドーム。山本寛斎は、鯉のぼり、雛人形、寝具セットなど意外性なコラボ商品が話題になった。中でも特に異彩を放った商品を知る人は少ないだろう。それがJUNの生たまご。JUNグループ傘下の養鶏所で採れた卵が25個入りで1000円。当時の一般的な卵の倍の価格であった。これをスクランブルエッグで食べることが、ハイセンスを気取ったマヌカン達のトレンドだった。
怒涛のようなDCブランドの拡大は、新たな潮流を生む。その主役はタレントたちだった。自らをブランド化しセルフプロデュースに励んだタレントたち。DCのDをタレントのTに変えたTCブランドの誕生だ。
松本伊代のハロー。あまりにも凡庸なブランド名が災いしたか、もはやネット検索にも引っ掛からない。アグネス・チャンのディア・アグネスは、親子のペアファッションがテーマだった。しかし、親愛なるアグネスというネーミングには首を傾げざるを得ない。
乱立したDCブランド、タレントたちが励んだTCブランドも一部を除けば、おとぎの国に咲いた徒花だったのだ。だがDCブランドを追いかけたTCブランドが更なるムーブメントを産み落とす。
芸能界の名だたる大物たちが、次々にタレントショップをオープンさせたのだ。原宿や嵐山といった観光地に軒を連ねたタレントショップに、修学旅行のウブな少年少女が列を成した。この機に乗じて、島崎俊郎、桑野信義、井森美幸、ケント・ギルバートと言った数多のタレントも店を出している。
ボディ・コンシャス全盛
ここに来て1人の女性がファッションの流れを大きく変えることになる。その人物の名は「ダイアナ・プリンセス・オブ・ウェールズ」。来日時、彼女が見せつけたセンスは、DCブランドのビッグシルエットを蹴散らし、お嬢様&セクシー路線の幕開けを後押しした。
バブルファッションの象徴とも言える「ボディ・コンシャス」。シリアスなニュースをボディ・コンシャスで伝える女子アナ。今見ると滑稽だが、バブルではスタンダードだった。
ボディ・コンシャスに身を固めた女子たちがアフター5に目指したおとぎの国は「宮殿ディスコ」だった。バブル突入前夜の1984年、麻布十番に出現した「マハラジャ」には、スペシャル感が横溢していた。男女に料金格差を設けたり、メンバーズカードを発行したり、大理石のお立ち台やVIPルームなどのゴージャスさが、ボディ・コンシャスたちを恍惚とさせたことは言うまでもない。
だがバブリーなディスコシーンに激震が走ったのは1989年のこと。クラブ「GOLD」の誕生だ。芝浦の倉庫を全面改装し、7階建てのGOLDはクラブという呼称に市民権を与える先駆けとなった。
男と女を熱狂させたGOLDを人はモンスタークラブと呼んだ。各階ごとにそれぞれのコンセプトがあってワクワクするような大人の遊び場だった。ミックジャガー、デヴィット・ボウイ、マドンナ、現アメリカ大統領トランプなどが普通に遊びに来ていたという。
1Fエントランスは、光と闇が織り成すサイバー・パンキッシュな空間で否応なく非日常へと誘う。2Fには、巨大なBARラウンジと100人を楽に収容するダンスフロア。3Fと4Fには、キャパ2500人のメインフロアが待ち受ける。ここまでは、従来のディスコのスケールアップに過ぎない。
真骨頂はVIP限定の上層階にある。Love&Sexと名付けられた5Fは、薄闇に広がる洞窟
のようなスペースに点々とラブソファーが配置されていた。出会って間もない男女は壁の窪みで肌を寄せ合い薄っぺらな愛を語り合ったのだ。
6Fには京都のお茶屋を完全再現した会員制ラウンジyoshiwara。こちらの内装は全て京都から運び込まれたという徹底ぶり。そこに20人が入れる露天風呂ジャグジーを備え、東京タワーの夜景を堪能することができた。
最上階URASHIMAでは、夜ごとキックボクシングを始めとする格闘技が催され、観戦するVIPたちは湧き上がるアドレナリンに我を忘れたという。一般客とVIPを分かつ5Fから上への外階段は、天国への階段と呼ばれた。そこでは一定の距離を保ちつつも、男女が危うい姿勢で体を交わしていたことを言い添えておく。
官能を解き放て!バブルのおとぎの国は、ニッポンのプチルネッサンスだったのか…。
恋愛観から見る日本経済の虚ろな輝き
バブル時のモテ男の職業ピラミッド
バブルとは恋愛観を変えた時代だった。だがそこには、上り階段がいつの間にか下り階段に変容するエッシャーのだまし絵の如き錯覚があったことを忘れてはならない。離婚率の推移を調査したデータによれば、バブル期を境に離婚する夫婦が急増していることがわかる。金の切れ目が縁の切れ目と言えばそれまでだが、この時期におけるモテ男の職業ピラミッドに目を向けると…。
底辺にいたのは公務員。今でこそ引く手数多だが、当時は地に足が着いた職業ほど下に見られていた。安定とはカッコ悪いことだったのだ。続いて財力に恵まれないサラリーマン、その上にあぶく銭を手に入れた金持ち大学生が位置していた。
当然ながらスポーツ選手や芸能人は不動。彼らを抑えてピラミッドの頂点に君臨したヤツらがいる。それが、ヤンエグと空間プロデューサー。ヤンエグは、ヤングエグゼクティブ、成功した青年実業家や一流企業のサラリーマンを指す。
モテ度でヤンエグと張り合った空間プロデューサーは、文字通り空間をプロデュースするという甚だざっくりとした職業だった。その作品は、例えば熱帯の樹木をうっそうと茂らせ、まるでアマゾンで食事しているかのような体験ができるジャングルレストラン。
女性は熱帯魚に欲情する?と言った都市伝説に乗っかったアクアリウムバーなど、今ひとつ説得力を欠くものばかり。それでも空間プロデューサーに理由なき才能を感じ身を捧げた女性がいたのである。しかしながらそれはごく一部。バブルとは女性たちを精神的に勢い付けた時代でもあった。
恋愛マニュアルの登場
1986年男女雇用機会均等法の施行は、女性たちの転職とスキルアップを堂々と後押しすることになる。アッシーやメッシーの出現が物語るように、男子が女子の下僕と化したのもバブルの横顔の1つだろう。どうしたらバブル女子を口説き落とせるのか?迷える子羊たちに差し伸べられた救いの手が「恋愛マニュアル」だ。
10代から20代の男子が熟読していた雑誌「Hot-Dog PRESS」は部数激増の秘密兵器として恋愛マニュアルを頻繁に特集し、男子のバイブルと呼ばれた。紹介された幾多のテクニックを複合して、童貞たちに推奨された当時最強デートマニュアルがこれだ!
- 憧れの彼女はイタ飯ブーム発祥の地、西麻布のアルポルトに誘い、この頃はまだ珍しかった塩分たっぷりのペペロンチーノを勧める
- 空間プロデューサーが腕を振るう富裕感満載のバーで、塩分で乾いた喉にはこれが一番と甘いカルーアミルクで彼女を酔わせる
- そして囁く。うちにウーパールーパー見に来ないと部屋に誘う
バブル女子はこれでイチコロと言われた。
男性誌のマニュアルが迷走する一方、女性誌の恋愛特集は遥かに先を走っていた。リードしていたのは「an・an」。その内容は、「感度を高めてセックス上手になる」、「セックスはホルモンのバランスを保つ最高のエステティック」などファッション誌の殻を破り1冊丸々SEX特集を打ち出し女性も積極的にSEXを楽しもうと主張した。
こと恋愛を巡っては、女性上位時代が現実になりつつあったのだ。だが恋愛マニュアルそのものを一刀両断した権化が現れる。モテ指南界のテロリスト「北方謙三」だ。童貞のバイブル「Hot-Dog PRESS」の連載で北方は不敵にもこう書いた。
「女であろうと男であろうととにかく殴る!」
「男が問われるのはペニスの大きさではない!金玉の大きさだ!」
「ソープに行け!」
これにはバブルで浮き足立った男女も震え上がった。
ところで時代時代には旬の顔というものがある。最もわかりやすい顔と言えば芸能人だろう。そこでバブル期における芸能界モテ男の変遷を進化論的に振り返ってみる。
岩城滉一は、ワイルドな風貌と不良ぽっさでバブル初期にもてはやされた。そこにインテリの匂いを纏った進化系・三上博史が登場する。続いて現れたのがインテリ臭にセクシーさをまぶし「目を閉じておいでよ」と指示したKONTA、だがカレッジスタイルが広まるとモテ男の座はテニスルックの石黒賢に奪われる。バブル末期になるとロン毛の江口洋介が出現。次なる渋カジへの橋渡しとなった。
モテ車の登場
バブルと恋愛を語る時、欠かすことができなかったものがある。それは「モテ車」だ。バブル女子たちは車で男たちを値踏みした。車至上主義がはびこれば、車のない男など見向きもされない。
バブル時にデビューした人気車種は、セルシオ、シーマ、NSX、GTO、コスモなどメーカーが威信をかけたハイスペックなものだ。その中でも最強と謳われたモテ三銃士が存在する。
それがソアラ、シルビア、プレリュードだ。とりわけソアラの人気は別格だった。スタイリッシュなデザインとラグジュアリーな乗り心地でバブル女子を虜にした。女子大生などドアを開けて誘っただけで、飛び乗ってきたことから女子大生ホイホイとも呼ばれた。
さらにモテ車の風潮は、折からのグルメブームと結びつく。ボディ・コンシャスを助手席に乗せ、車を横付けできる店が注目を集めた。代表格は、白金台の「ブルーポイント」、三宿の「ボエム」、外苑前の「セラン」、天現寺の「ペーパームーン」など。
今、振り返れば全ては泡沫の夢。シンデレラを乗せた馬車が本当はカボチャだったように、所詮はバブルの魔法が成せる業。誰もが浮き足立った荒唐無稽なあの時代は、もう二度と戻らない。