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ヒトラー奇跡の8年間!?放浪者から総統へと上り詰めた信じられない軌跡!

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なぜヒトラーは、ナチスの指導者になることができたのか。青年期の彼は画家志望だったが、あえなく挫折。その頃に母を失い、心に大きな傷を負う。第一次世界大戦では志願してドイツ軍に従軍。早くもプロパガンダの才覚を見せる。そしてミュンヘン一揆ではクーデターに失敗。しかし著書「我が闘争」やドラマチックなスピーチ、演出を加えた写真などにより影響力を増し、カリスマ的なイメージを作り上げていく。

青年期

 1913年5月24歳のヒトラーは徴兵を免れるため、故郷オーストリアを脱出する。ヒトラーが生まれ育ったオーストリアは、所属する民族がアイデンティティを決定づける地域だった。ドイツ人かユダヤ人かスラブ人か、ヒトラーは早くから自分をドイツ人とみなしていた。

軍人としてオーストリア=ハンガリー帝国に仕える気などさらさらなかった。頭にあったのはドイツでの未来だけだった。オーストリアからドイツに逃げ込んだアドルフ青年は、兵役逃れの罪で追われる身となる。

1914年1月18日、逃亡から8ヶ月を経て、ミュンヘンで発見されたヒトラーは裁判にかけられる。彼は法廷で、困窮した若者を演じ、情に訴える作戦に出る。珍しい境遇でもないヒトラーに同情した判事は、ヒトラーを許した。彼はこの才能を磨き続けることになる。

1914年8月3日、ドイツはフランスに宣戦布告する。オーストリアの兵役を逃れたヒトラーは、意気揚々とドイツ軍に志願。バイエルン王国第16予備歩兵連隊に配属された。ヒトラーたちの部隊は、激しい砲火に晒されヒトラーは戦争の現実を目の当たりにする。

11月の戦闘でヒトラーの所属する部隊は、2000人以上を失った。しかし、ヒトラーは生き延び最初で最後の昇進を果たす。世間一般では、ヒトラーは伍長に昇進したと言われているがそれは誤りだ。実際に与えられた階級は上等兵だった。つまり、まだ一兵士で下士官ではなかったのだ。上層部はヒトラーに指導者としての素質をまったく見出していなかった。

昇進したヒトラーは伝令兵という新たな役割を与えられ、司令部と戦闘部隊の意思疎通のために奔走することになる。そして、ヒトラーの武勇伝としてナチスが利用した逸話が生まれるわけだが、近年発見された記録に重大な矛盾が見つかった。

それがフランス兵を捕らえたという逸話だ。ナチスの記録では、勇敢な英雄はアドルフ・ヒトラーであったのに対し、新たな記録ではヒトラーの上官だったユダヤ人フーゴ・グートマンだったのだ。ナチスは、グートマンの功績を歴史から消し去った。

ヒトラーが叙勲されたのは、戦火をくぐって命令を伝えたという全く別の功績からだったのだ。第一級鉄十字勲章を得たヒトラーが、ようやく誇れるものができたと思っただろうことは想像に固くない。ヒトラーは死ぬまで鉄十字勲章を身につけていたという。

1918年10月13日、ヒトラーの戦争は突如終わりを迎える。イギリス軍のマスタードガス攻撃に遭ったのだ。翌朝には、目はただれて見えなくなっていた。ヒトラーはポーランド国境近くの軍病院に運ばれた。ただ、ヒトラーが入れられたのは眼科病棟ではなく精神科病棟だった。そこからヒトラーは、4年の戦争でプレッシャーに押しつぶされて精神を病んでいたことが想像できる。ただし、ヒトラーの独裁者としての気質を形成したのは、戦場での体験だけではなかった。彼の狂気は近しい戦友たちも知りえないほど、根深いものだったのだ。

幼少期

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1889年4月20日、ブラウナウ・アム・インの街で生まれた。ヒトラーの家庭は特殊だった。母親が夫をおじさんと呼んでいたのだ。さらに最初の3人の子供は、次々と亡くなり4番目のアドルフだけが生き残った。その後、弟と妹が生まれるが弟の方はなくなってしまい母親は、一人息子のアドルフを溺愛した。

一方、父親とは険悪だった。父・アロイスは年配な上に冷淡で日常的にヒトラーを折檻した。結果、ヒトラーは父を酷く憎むようになる。父の暴力から逃避するため、アドルフ少年は、ドイツ人作家カール・マイの著作に熱中する。アパッチ族の酋長が部族の名誉を賭けて戦う物語だ。

アメリカ西部を描いたこれらの小説が、ヒトラーに初めて世界の広さを教えた。あくまで空想の世界ではあったが。空想好きのアドルフ少年が9歳の時、一家はオーストリア北部のリンツに移る。やがてアドルフは、画家になる夢を抱くがそれは父・アロイスの考えに真っ向から反するものだった。

ヒトラーの父は役人だった。彼は息子から将来、芸術家になりたいと打ち明けられると激怒して「私の生きているうちは絶対に許さない」と言い放った。結局、ヒトラーは実科学校に入り、数学と化学を中心に学ぶことになる。ヒトラーは歴史に興味を示し、中でもドイツ国王や皇帝などの英雄譚にだけ強い関心を見せたという。

ヒトラーのドイツへの入れ込みようは、父との溝を益々深めた。アロイスの帰属意識は、明らかにハプスブルク家の統治する国家にあった。しかし、ヒトラーは自身をドイツ人とみなし、汎ゲルマン主義に傾倒したのだ。

心通わせないまま父・アロイスは、1903年1月に急死。13歳のヒトラーは、一家の長となった。4年後の1907年、ヒトラーは母を残して首都ウィーンへ。美術学校に入るためだ。唯一の友人アウグスト・クビツェクも両親を説得して呼び寄せた。芸術家志望の若者は、親友と共にオペラ鑑賞に没頭する。

特にハマったのがワーグナーだった。ワーグナーの作品は、神話めいた壮大さでドイツ的気質を表した。ヒトラーの理想の社会は、ワーグナーの作り出した神話からイメージされた完全に空想の産物だった。

しかし、夢見がちな青年は、まもなく空想と現実の違いを突きつけられる。ウィーン有数の美術学校で入学試験を受けたのだ。建物を対象に描いた絵に関しては、それなりに高い評価を受けた。ところがヒトラーは人物の絵を描くことが苦手だったのだ。楽勝だと思っていたのに不合格になってしまう。

憤慨したヒトラーは再受験を決意するが、そんな折に悲劇が起きる。1907年12月21日、ヒトラーは危篤状態の母の元に舞い戻っていた。治療を施したユダヤ人医師ブロッコの慰めも届かないほど、ヒトラーは深く悲しんだ。ここから見て取れるのは、その後もヒトラーが度々見せた感情の起伏の極端な激しさだ。喪失や失望、挫折といった困難に直面した時にきちんと向き合うことができないのだ。

1907年からの2年間でヒトラーは転落の一途を辿り、浮浪者にまで落ちぶれてしまう。クリスマスを浮浪者の収容所で過ごしたほどだ。心は砕かれ、夢は消え、将来も見えない。ヒトラーには責めるべき何かが必要だった。自分を拒絶し、才能を否定した中産階級のブルジョワ層に対する憎悪が激しく燃え上がった。

政治家に転身

雑用で小銭を稼ぎながら収容所で暮らすヒトラーは、首都ウィーンでユダヤ人への反感が高まっているのを感じ取る。ヒトラーが影響された政治家に、第一次世界大戦前のウィーン市長カール・ルエーガーがいる。右派の政治家だった。ヒトラーはルエーガーの大衆の本質を理解し、心情を掴む能力に心酔した。

ヒトラーは後に、ユダヤ人への嫌悪が生まれたのはこの時期だと主張したが、それは後付けに過ぎない。ユダヤ人の友人もいたし、ユダヤ人に絵を売ったりもしていた。ユダヤ人と争ったとか、反ユダヤ的感情を持っていたとかいう証拠は、第一次世界大戦以前には見つかっていない。

ヒトラーは政治目的のため、ウィーンでの生活を誇張を満載して伝えた。第一次世界大戦もしかり、1918年11月ヒトラーは精神科病棟でドイツの敗戦を知る。ヒトラーは、彼らが後方でドイツを裏切ったのだと、ユダヤ人や社会主義者、平和主義者を責めた。しかし、実際はただの戦術的な失敗だったのだ。

ヒトラーの感情は、日に日に憤りや嫌悪感に支配された。そしてある時から、その激しい感情を政治にぶつけ始める。自らの信念によって世界を跪かせようとしたのだ。

1934年9月、ヒトラーはドイツの救世主となり、十年来夢見てきた栄光の瞬間を味わう。10万を超える支持者が一堂に会したニュルンベルクでのナチス党大会。歴史に残るこの集会でヒトラーは、一世一代の大演説を行う。

この年、ヒンデンブルク大統領が死去。ヒトラーは国民の9割近い信任を得て大統領と首相を兼務する総統となった。ウィーンの公園のベンチで寝起きしていた男が第三帝国の総統なのだから驚くべき躍進だ。

第一次世界大戦後

終戦を迎え視力も回復したヒトラーは、精神科病棟から退院。祖国の敗北によって将来を見失った何千もの兵士たちと共にミュンヘンへ帰還していた。この頃のヒトラーは、他のドイツ兵同様、目標を見失っていた。動員が解かれても軍に残ったヒトラーは、やがてミュンヘン大学のプロパガンダ講習に参加することになる。

ヒトラーが選ばれたのは、ドイツの将来について帰還兵に訴えるものを養成するためのプログラムだった。特にボリシェヴィキのプロパガンダに毒された復員したての兵が対象だった。この訓練でヒトラーは、自身が持つ唯一無二の才能を発見する。演説だ。

ヒトラーは力強く説得力にあふれた論じぶりで仲間を圧倒。この活躍が情報課、課長カール・マイヤー大尉の目に止まる。マイヤーはすぐにヒトラーの才能に気づいた。鋭意な言葉を使ってごく完結に主張を表現したので、兵士たちや一般市民の心に響かせることができたという。

1915年5月、右派の集会に参加するヒトラー。新米スパイ・ヒトラーの初期の任務は、新興過激派政党への潜入と監視だった。1919年9月12日、ヒトラーは極右派ドイツ労働者党の偵察を命じられる。10人程度の人間が、時事問題について雑談のような議論をしているのを見て、ヒトラーは幻滅した。説き伏せられると確信したヒトラーは、バイエルン独立を主張する議論に割って入り、ドイツ団結の重要性を訴えた。容赦ない表現で、自分や他の兵士が払ってきた犠牲を並べ立てた。全てはバイエルンではなく、ドイツ全体のためだったと。

党首のアントン・ドレクスラーは、関心して「ヤツは仕える」とこぼしたそうだ。調査対象から勧誘されたヒトラーは、自分の考えに同調したのだと受け取り、入党を決意する。国をひっくり返す革命家を目指していたヒトラーには、急進派というのがしっくりきたのだ。座って指示をするだけでなく、自ら動く者になりたかったのだ。

革命家時代

1915年10月16日、ヒトラーはドイツ労働者党で初めて公式の演説に臨んだ。後に「我が闘争」にも記した転機だ。30分あまりの演説で、それまでただの予感でしかなく確信を持てなかったことが事実だと証明された。自分は演説がうまいという事実だ。

ヒトラーは党委員会に迎えられ、強力な演説で党員を増やしていく。ヒトラーの主張がドイツで受け入れられたのは、元々反共産主義者やユダヤ人嫌い、敗戦は裏切りのせいだと信じる者が大勢いたからだ。つまり、ヒトラーは常に大衆の心を掴んでいたのだ。ただし、この時はまだ自分をドイツの救世主だとは見ていなかった。

以降2年間で労働者党内に亀裂が発生。指導者の座を巡り争いが起こる。ヒトラーは党の中心人物だったが、ドレクスラーと活動方針で対立し、憤慨して離党すると脅しをかけた。すると周囲は、ヒトラーの特別な才能を改めて認識し、彼で勝負したいと考えた。そのためにヒトラーをリーダーに据えたのだ。

1921年7月29日、前年に国家社会主義ドイツ労働者党と改称した党の単独指導者としてヒトラーが正式に就任。目指したのは、民族社会主義。つまり国家社会主義が意味するのは、国家としてのドイツ復興だけでなく社会改革だった。

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かつての画家志望の少年は、不吉な印の入った新たな党旗を打ち出す。ヒトラーは視覚的な表現に異常なほどこだわった。元々あのかぎ十字のマークは、極右運動でも見られたものだったが、ヒトラーによってナチスのシンボルとなる。ヒトラーは民族主義者が、いきなり全員ナチスに同調するわけではないとわかっていた。そこで党旗の色使いを工夫したのだ。黒いかぎ十字を白い円で囲み、背景は赤。ドイツ帝国を想起させる。

こうしてヒトラーの躍進は始まった。プロパガンダを駆使して、恐ろしい個人崇拝体制を築き上げるのも時間の問題、もはや止められる者はいなかった。ヒトラーは身に付ける物1つにまで気を配り、単なるリーダーではなく国家そのものを体現する存在としてイメージを作り上げた。ヒトラー成功のカギとなったイメージ戦略、それは政界進出初期から始まっていた。

1920年代初頭は、ほぼ表に出ず写真を見た人すらあまりいなかった。そうやって意図して神秘的な雰囲気を醸し出し、さらにはオオカミという意味の「ヴォルフ」を通称とした。1921年8月、ヒトラーはナチスの資金を集めるため、自らのイメージ一新を試みる。ところが、高い野心に見合う人物像を作る試みは失敗、ヒトラーはミュンヘンの大将と揶揄される。一党の党首たる者、上流社会の人々との交流は必須だったが、ヒトラーはその手のことがまったくダメだった。テーブルマナーに疎く、振る舞いはがさつ、ワインに砂糖を入れたり、ナイフとフォークの持ち方を知らなかったり、ケーキは誰よりも先に独り占めしてがっつくし、話す時も犬用のムチで膝を叩きながらという具合だった。まだ、とても富裕層には馴染めてなかった。

ミュンヘン一揆

昔のクセがなかなか抜けないヒトラーだったが、その粗暴さがある転機をもたらす。1923年ドイツは、敗戦によってフランスから課せられた莫大な戦争賠償金を払いきれず財政破綻の危機に陥る。ワイマール共和国は追い込まれていた。賠償金の支払いのため、休みなしに貨幣を発行したがその行き先は決まっている。インフレだ。

戦前は1ドルが4マルクだったのが、1ドルが20,000マルクに跳ね上がったのだ。景気急落を受けてヒトラーが目をつけたのは、もはや共和政府への信頼も消えかけたドイツ国民。指導者への渇望を感じたヒトラーは、前年のイタリアの出来事からヒントを得る。

ヒトラーはムッソリーニを信仰していた。政権奪取を試みた際も、1922年のローマ進軍を意識していたと思われる。ムッソリーニは過激な方法で権力を掴んだ。面倒な投票などを経ないやり方にヒトラーは惹かれた。ただ、首都まで行進してこう言えばいいのだ。「権力を渡せ!」

1923年11月8日、ヒトラーは党の突撃隊員600名と共にミュンヘンのビアホールへ乗り込む。そこでは、バイエルンのカール総督が演説中、3000人の聴衆の中には有力政治家もいた。拳銃を手にしたヒトラーは、すぐに注目を集める。天井に発泡したのだ。そして宣言する「今こそ国民革命のはじまりだ」と。辺りが歓声に包まれ、ヒトラーは成功を確信したことだろう。3000人全員が、政権の転覆を信じた瞬間だった。

翌日、ヒトラーは2000人を引き連れミュンヘンを掌握すべく市内を行進。しかし、カール総督がベルリンに報告したことで鎮圧部隊が派遣された。軍や警察は非常線を張り、ヒトラーたちへ発砲した。左右にいた2人は死亡したにも関わらず、ヒトラー自身は奇跡的に無事だった。この衝突で20人近くが死亡。混乱の中、ヒトラーはハーバード大卒のナチス支持者エルンスト・ハンフシュテングルの下に身を隠す。

人生三度目の挫折を味わったヒトラーは、ひどい情緒不安定に陥った。隠れていた2日間、ヒトラーは意気消沈し銃をいじり自殺しようとしていたそうだ。ハンフシュテングルの妻の説得によって自殺は思いとどまったが、党は崩壊し、もはや世間の笑い者となっていた。

1923年11月11日、ヒトラーは逮捕される。ヒトラーの構想は脆くも崩れ去った。クーデターの首謀者は、反逆罪で死刑となる可能性もある。陪審裁判ではなく、3人の判事が同席する行政裁判だった。全員ドイツ帝国時代を経験していたため、愛国心ゆえに暴動を起こしたヒトラーに同情的だった。それを感じ取ったヒトラーは、法廷を自分の主張を伝えるための恰好のステージへと変えた。その発言は、メディアによって伝えられた。

判決は有罪。しかしながら死刑は免れ、禁固5年という寛大な措置を受ける。ミュンヘン一揆の失敗は、ヒトラーの政治生命を絶つどころか、新たな始まりの契機となった。獄中のヒトラーの元には、絶えず支持者などが訪れ、あらゆる贈り物や食べ物を差し入れた。この時期、ヒトラーは信頼のおける部下ルドルフ・ヘスに自伝を口述筆記させる。これを基に出版されたのが「我が闘争」だ。

ヒトラーは「我が闘争」の中で野望を述べている。ユダヤ人に対して戦争を起こす、ヨーロッパに住んでいるユダヤ人を根絶やしにする、世界のパワーバランスをひっくり返すといったことだ。この頃からヒトラーは、自分をドイツの救世主だと認識し始める。

総統の誕生

1924年12月20日、ヒトラーはわずか9ヶ月の服役の後、模範囚として早期出所を許される。釈放されミュンヘンに戻ったヒトラーだったが、党内は混乱している上、出所早々に切り札の演説をバイエルン政府に禁じられてしまう。

そこで方針を転換。革命を目指すのではなく、現政府の中から変化を起こすことにしたのだ。戦略を合法路線に切り替えたヒトラー。ならず者のイメージを払拭するため、カメラマンのハインリッヒ・ホフマンに写真撮影を依頼した。

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200万枚を超える写真を撮影。理想のヒトラー像を作り上げていく。ヒトラーは気に入らない写真を処分するよう言ったが、ホフマンは捨てずに保管していた。演説中の身振り手振りを実際に写真に撮って研究していたことがわかる写真が残っている。

権威回復の秘策は写真だけではなかった。1926年ヒトラーは、党内の反対勢力の抑え込みに目を向け始める。臨時党大会を開いたヒトラーは、党の指導者をドイツ全土から招集。自らに対する絶対的服従を求めた。ヒトラーの演説により集まった60人は全員、ヒトラーに忠誠を誓った。ナチスは再び総統の強力の支配の下、統一されたのだ。

1926年7月3日、ワイマールにおける党大会でヒトラーは、新たに作り上げた仮面をお披露目した。今後の個人崇拝と独裁体制の礎となる総統ヒトラーの仮面だ。ヒトラーが総統という呼称を選んだのは、政治的指導者という意味だけではないからだ。民を導く預言者のような意味もあるという。

右腕を伸ばす敬礼。これもこの時からナチスの名刺代わりとなる。そこかしこで「ハイル、ヒトラー」と出迎えられて自分の人気や権力は無敵だと実感できただろう。

わずか8年でアドルフ・ヒトラーは揺るぎなき指導者へ変貌を遂げた。1927年3月、バイエルンでの演説禁止命令が解かれた。イメージと政治スキルを磨き上げたヒトラーが、低迷するドイツ、そして世界に殴り込みをかける時がいよいよやってくる。

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