戦国時代の超有名人・明智光秀。実は、織田信長に仕える前にどこで何をしていたのか、ほとんど謎だった。しかし、最近新しい資料が次々に発見され意外な事実が判明した!明智光秀の実像に迫る!
あらためて知りたい!明智光秀
今年の大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公・明智光秀。「本能寺の変」で日本史上でも屈指の有名武将だ。しかし、その人生は謎だらけ。生まれた年や出身地など、前半生のことはほとんどわかっていなかった。
ところが最近、とある古記録が脚光を浴び、若い頃の意外な職業が判明した。それは「医者」。しかもこの事実は、光秀のその後の人生に大きな影響を及ぼしていた。最新研究から、明智光秀の実像がよみがえる!
織田信長の家臣になるまで
光秀の出生は、1528年というのが有力になっている。その場合、6歳年下の織田信長の家臣となったのは、光秀が44歳の頃(1571年頃)。すると本能寺の変を起こしたのは、55歳の時となる。
人生の前半については、江戸時代の軍記ものに戦国大名・斎藤道三や朝倉義景に仕えたなどとあるが、同じ時代の資料で裏付けられているわけではない。つまり、信長に仕える前にどこで何をしていたのか、わかるものはほとんどなかった。
針薬方の発見
しかし最近、光秀の謎の前半生に迫る手がかりが見つかった。
滋賀県高島市にあった田中城に光秀はいたことがわかったのだ。この時、光秀は39歳。信長に仕える5年ほど前になる。近年、熊本の旧家で医術本である「針薬方」が見つかった。これには、金瘡(きんそう)と呼ばれた戦いでの傷の治療法などが記されている。この「針薬方」には、
「明智十兵衛尉 高島田中籠城の時に口伝した」
と書かれている。つまり、この医術書は明智光秀が田中城籠城のさなかに口伝えで教えたものであり、光秀は武士でありながら医者としての知識があったことが判明したのだ。
光秀の籠城には、当時の政治情勢が関係している。この前年、室町幕府13代将軍・足利義輝が、家臣の三好三人衆に殺害されてしまう。すると義輝の弟・義昭は、近江から諸国の武士に自分を助けるように呼びかけた。
光秀は、これに応じて義昭の拠点の1つ田中城に入ったと思われる。この時、医術を口伝えで光秀から教わった武士が義昭の側近で、そこから光秀のことが義昭に伝わったと考えられる。
朝倉家で医術を学んだ10年間
福井県坂井市にある称念寺。鎌倉時代に開かれた時宗のお寺だ。「遊行三十一祖京畿御修行記」は、「針薬方」の少し後に成立した記録。ここに光秀が、越前の大名・朝倉義景を頼って称念寺の門前に10年住んだとある。
つまり、光秀は田中城籠城の前後になる30代の頃にここに住んでいたことになる。朝倉義景の城下町である一乗谷には、医術を取り入れることに熱心だった朝倉義景の痕跡が多く残されている。
医者の屋敷跡からは、薬さじや薬の材料を細かくする薬研など多くの遺物が見つかっており、一乗谷の医術が進んでいたことを伺わせる。光秀は、朝倉家の医術を教わっていたのだろう。
「針薬方」には妊婦に対する処方が多く記されており、光秀は産婦人科医として働いていたのではないかと思われる。
光秀について最新研究でわかったことをまとめると、
- 30代前半、越前の称念寺門前に居住
- 医者として生計を立てる
- 40歳直前に田中城で籠城
- 足利義昭の側近に「針薬方」を伝える
足利家の家臣となる
1568年、田中城での働きが認められたのか光秀は、義昭のもとに招かれる。こうして家臣となった光秀は、義昭のために尽力する。
5ヶ月後、義昭は織田信長の助けで京に入る。そして翌年、光秀は大きく出世するきっかけをつかむ。かつて将軍・義輝を殺害した三好三人衆が、再び京へ乱入したのだ。義昭が襲撃された時、光秀は味方が駆けつける2日間、将軍御所を守りきった。
このことが評価されたのか、直後に光秀は側近の1人へと抜擢される。木下藤吉郎秀吉らと都とその周辺で起きる様々な問題を処理する行政官のような重要な仕事を任される。文字に明るく、米の計量など計量能力の高さから光秀が選ばれたと考えられる。
この時、光秀43歳。いよいよ戦国の荒波に乗り出していく。
織田家 第一の家臣
天下の将軍の家来、室町幕府の一員となり領地も得た光秀は城の主にもなった。滋賀県大津市の宇佐山に光秀が任された城があった。当時の城には珍しく、石垣を持つ堅固な造り。織田信長が琵琶湖やその北の抑えに置いた城で、京を守る要衝の1つだった。
宇佐山城のすぐ近くには、比叡山延暦寺があり、光秀の人生はこの後「天下布武」を掲げる信長の戦いに大きく影響されていくことになる。
延暦寺焼き打ち
1571年延暦寺焼き打ち。織田信長が堂塔伽藍を焼き払った。僧侶だけでなく、女性や子供まで殺害。その数は4000人にも及んだ。これまで、光秀は焼き打ちに消極的だったとされてきた。
ところが、事件の直前に光秀が出した手紙には…。
「延暦寺に味方する仰木の者たちは必ずなで斬りにします」
と書かれている。「なで斬り」とは皆殺しのこと。これは信長使う「根切」によく似ているという。つまり、信長と光秀の思考の一致を物語っている貴重な事例なのだ。
京都盆地の北西にある愛宕山。ここに光秀が心の拠り所とした愛宕神社がある。当時、ここには祈願すれば戦いに勝てるという「将軍地蔵」が置かれていた。愛宕の神は、軍神として16世紀から武士の間で信仰を集めていた。
光秀は、延暦寺の僧侶たちを殺しても愛宕の神の罰は当たらないのではないかと考えていたようだ。そのため僧侶殺しという一昔前だったら仏罰が当たるようなことでも、容易に成し遂げられたのではないかと考えられる。
焼き打ちの後、光秀は信長から志賀郡を与えられる。義昭からもらった領地の数十倍だった。この頃から光秀は、信長も主君と仰ぐようになる。
必要とあらば手段を選ばずやり遂げる。家臣は家柄ではなく実力で評価する。信長の合理的な考えに光秀は惹かれていったと考えられる。そして2年後、光秀は大きな決断を迫られる。
将軍・義昭が信長と対立。この時、光秀は義昭と決別、信長のみを主君とすることに決める。室町幕府は、身分秩序を大事にするので義昭は、もともとの身分が高い武士、家柄の高い武士を優遇するということになる。光秀にしてみれば、義昭に使えていても限界あり、そんなに高い地位にまで出世できないということがあった。
だが、信長であれば実力を示し、実績を残せば出世できる可能性があった。それが光秀に信長を選ばせた背景にあったと考えられる。
丹波攻めの試練
1575年、光秀は丹波攻めを任される。丹波は山がちでたくさんの小領主がいる治めにくい土地で、足利義昭に味方し、信長に敵対する者も多くいた。
光秀は丹波の奥深く黒井城まで攻め入ったが、丹波中央部の大勢力で当初、信長の味方だった波多野秀治が裏切り、退路を絶たれる窮地からなんとか退却したものの、間もなく病にかかってしまう。京の名医・曲直瀬道三の治療を受けることになるが病は重く、回復まで2ヶ月を要した。
この頃、光秀を支えた人物として頻繁に登場する人物がいた。光秀の妹で信長の側室だった御ツマキ殿だ。当時、側室など信長に仕えた女性たちは、さまざまな訴えを信長に取り次ぐ役目も務めていた。
東大寺と興福寺の争い
ある時、御ツマキ殿は奈良・興福寺から訴えを寄せられた。内容は東大寺との争いごとだった。信長は、この裁きを光秀に任せた。その記録が「松雲公採集遺編類纂」に残っている。
「戒和上(かいわじょう)」という宗教上の重要な役目をめぐる奈良の2大寺院の対立だ。実は、この役目もともとは東大寺のものだった。しかし、130年前に興福寺に移っていた。それを取り戻そうと東大寺は、古文書などの証拠を揃えていた。
一方、興福寺の文書は年号も判もなく、文字も抜けていて信用しがたいものだった。東大寺の有利は明らかだったが、信長は双方に「近年の有姿」申し付けよと命令した。
近年の有姿を申し付けるとは、現在の状況を重んじるということ。古い証文など、前例を大切にする当時としては、珍しい考え方だった。
信長の方針を知った光秀は、興福寺を勝ちとした。これは、端的に歴史の否定を意味しており、織田政権はこれまでの歴史を否定した上で新しい秩序を作っていく政権であることを示したものと言える。
妹の力添えもあり、信長と緊密な関係を築き出世街道を突き進む光秀だった。
信長随一の家臣に
光秀は、2年前に裏切られた波多野秀明の討伐に向かうことになる。ここで光秀は、敵の城を完全封鎖するという、かつてない徹底した城囲いの攻城戦を繰り広げる。もともと文官である光秀は、戦争に強いわけではなかった。そこで考えついたのが、敵を逃がさず、兵糧などを遮断して戦わずに勝つという方法だった。
こうして、光秀は丹波を平定。となりの丹後まで攻略し、戦いでも信長の期待に応えた。信長の革新に共鳴し、奮闘する光秀。52歳にして織田家随一の重臣となった。
本能寺の変はなぜ起きたのか
四国政策
当時、光秀は信長と土佐の大名・長宗我部元親との間を取り持っていた。その結果、信長は、自分の「信」の字を元親の息子に与えた。これは同盟の証で、信長は元親を四国の支配者と認めたと考えられる。
ところが、本能寺の変の1年前。突然信長は、四国、阿波の国の武将・三好康長と接近。康長に領地を返すよう元親に要求したのだ。それで一番困ったのは、織田家において長宗我部との交渉窓口となっていた光秀だった。
窮地に立たされた光秀に追い打ちをかける出来事が…。妹・御ツマキ殿が病に倒れたのだ。妹を亡くし、光秀はとても力を落としたと記録は伝えている。
それでも光秀は、長宗我部に対する説得を続けた。妹の死の後に送った手紙には
「信長様に従うのが元親殿の御ため」
必死の思いが伝わってくる。
信長の変心
ところが、今度は織田家の内部で光秀を脅かす変化が起こりつつあった。この時、織田軍は、信長の一族や直臣衆を中心に厚遇するような傾向を見せ始めていた。自分の息子や娘に光秀たちが苦労して統治した土地を与えはじめたのだ。
これまで家臣を家柄ではなく、実力で評価してきた信長の変心。こうした中、3月には信長が天下を嫡男・信忠に譲ると表明。さらに5月に長宗我部元親を攻めるという衝撃的な決定をする。
総大将は信長の三男・信孝。讃岐は信孝、阿波は三好康長、残りは追って決める。四国に対する方針は一変した。光秀は四国攻めから外され、毛利を攻めていた羽柴秀吉の援軍を命じられる。
信長が光秀を用済みだと切り捨てたのかどうかは、わからないが光秀がそう感じてもおかしくない状況だった。
本能寺の変へ
5月27日(本能寺の変4日前)、光秀は愛宕神社に参拝する。1582年6月1日、丹波・亀山城、軍議中の光秀のもとに情報がもたらされる。
「失礼つかまつる!本日、上様、信忠様は御馬廻りと共に京にご滞在との由」
「あい、わかった。ご両所のご座所はいずこか?」
「上様は本能寺、信忠様は妙覚寺にてそうろう」
もたらされたのは、信長と後継者の信忠が僅かな供回りで京にいるとの情報だった。この時点で、他の有力家臣は皆、遠く離れた地で戦っていた。光秀は決断する。
「これより、信長を討つ!」
そして、家臣たちと共に天下人となる計画を立てたと記録は伝えている。
天下を取るには、信長だけではなく嫡男・信忠も同時に討たなければならない。だがこの2人を同時に討つことなど、そもそも無理な話。誰も仕組んでないのに、おあつらえ向きな状況がお膳立てされて、謀反のチャンスが与えられるなど、当時の人の感覚からすれば、もはや人間のできることではない。
神がやった天の配剤であると思ったことだろう。だからこそ、光秀は決断した。
この日、信長は49年の生涯を閉じた。そして、わずか11日後、光秀も非業の最期を遂げる。天下の主にはなれなかったのだ。