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クールジャパンの代表格の忍者!知られざるその正体とは!?

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しのぶものと書いて忍者。城や屋敷に潜入し、情報を盗み出す諜報活動のプロ。時には手裏剣など忍者ならではの武器で敵を殲滅!不思議な忍術を使いドロンと姿を消す。時代を問わず忍者を描いた作品は数多く、クールジャパンの代表格として世界中から人気を集めている。

  忍者のあらまし

忍者の歴史は今から600年前、南北朝時代にさかのぼる。激しい争いの中、各地の有力者たちが情報収集、潜入活動などの技術を洗練させていったのが忍者のはじまりだ。以降、徳川家康や武田信玄といった大名も忍者を戦術に取り入れ、忍びを使わない武将は存在しないと言われるほどまでに広まっていった。

しかし、そんな忍者の本当の姿は私たちのイメージとは大きくかけ離れている。例えば、忍者と言えば戦闘のプロというイメージが強いが、本当の忍者はめったに戦わなかった。そもそも忍者は、今で言うスパイのような存在。敵と対峙するよりも生きて情報を持ち帰ることが何よりも重要だった。戦うのは本当に最後の手段だった。

さらに忍者の代名詞・手裏剣もウソ。というのも十字型の手裏剣は欠点だらけ。投げる武器なのでたくさん携帯しなければ意味がない。しかし、鉄でできた手裏剣は大量に持ち運ぶには重すぎる。軽快な動きが求められる忍者には全く不向き。さらに、当時はまだ高価だった鉄。もったいなくて投げるのを躊躇してしまう。冗談のようだが本当の話なのだ。

実際に忍者がよく携帯していたのはクナイ。クナイは投げるのではなく、穴を掘ったり壁を登る際の足場として使われ、緊急時には敵を刺す武器にもなった。汎用性があり携帯するのに優れていたのだ。

忍者の真実

本当の忍者とは、戦いで相手を倒すより情報を得ることを重視していた。実は日本の歴史を支え動かしたのは、忍者だと言っても過言ではないのだ。

其の一 忍者は黒装束を着なかった

忍者といえば黒装束に身を包み華麗に潜入するというイメージだが、それは誤り。敵地に潜入して隠密行動しなければならないのに、一目で忍者とバレる格好などありえないのだ。一体なぜ、忍者と言えば黒装束というイメージがついたのか?

その理由は歌舞伎。江戸時代、観客が一目で忍者だと認識できるように、忍者の衣装を黒装束にしたのが始まり。その名残から忍者=黒装束というイメージがついたのだ。では本当の忍者はどんな格好をしていたのか?

本当の忍者は、潜入先の住人や風景に馴染むように様々な変装をしていた。例えば、町の人々から情報を聞き出す時には、町民や商人、お坊さん、山伏に変装。必要ならその地方の方言を話せるようにも訓練していた。またお城や屋敷の中を外から覗きたい時には虚無僧(こむそう)。顔を隠すことができ偵察に適していたのだ。さらに放下師や猿楽師といった芸人に変装することも。大名に気に入られれば、城の中に招いてもらえ重要な情報を集めることができたのだ。

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これは七法出(しちほうで)と呼ばれ、忍者の基本的な変装術だったという。

其のニ 忍者は将棋が強かった

当時の庶民の娯楽といえば将棋。知らない土地の人と仲良くなるためには、最高のコミュニケーションツールだった。忍者は誰とでも相手ができるよう人並み以上の腕前を持っていたという。

相手の心を自在に操り、秘密を聞き出していた忍者。その上で最も重要なのは、うつけ者を演じること。賢く振舞うと相手は気分を害して口を閉ざしてしまう。しゃべらせたければ、相手を気持ちよくさせることが大切。そのため、将棋でわざと負けることも多かったという。情報を引き出すために、忍者はプライドを捨てていたのだ。

其の参 潜入には穴を掘る

かぎ縄を使って城や屋敷に侵入しようとすると見張りに見つかってしまう危険性が高い。潜入のために忍者は、穴を掘りトンネルを通すことが多かったという。完成までに数ヶ月かかることもあった。

また壁が木造なら塩水を吹きかけていた。経年劣化に見えるよう少しづつ木を腐らせ穴を開けていたという。

其の四 忍術は科学だ

もちろん実在の忍者は、SFのような超能力を使えたわけではない。忍術とは科学の応用。忍者は、現代でも専門家だけが知っているような科学的知識を豊富に持っていたのだ。

例えば夜の山奥で道に迷ったら、火を起こし、縫い針を使って熱残留磁化という仕組みを利用した方位磁石を作っていた。縫い針を熱し、すぐに冷まして水に浮かべると針が南北を指し方位磁石になるのだ。

また忍者は火の扱いにも長けており、「忍び松明(しのびたいまつ)」とよばれる雨に濡れても消えにくい特殊な松明を作っていた。さらに火薬が貴重だった時代、独自に火薬を作り出すこともできた。その方法は…なんとウンチ!糞尿と灰汁を煮込んで冷やすと火薬の原料である硝石ができるのだ。

其の伍 忍者はサバイバルの達人

時に山中に身を隠す必要のあった忍者は、サバイバル術も心得ていた。自生する植物の種類を見極め飢えを凌んでいた。万が一に備え、もち米や砂糖を練って作った高カロリーで腹持ちもいい非常食を携帯していた。

それだけではない。梅干と砂糖をもとに酸味で唾液を分泌させ、喉の渇きを癒すものも持ち歩いていた。これを水渇丸と呼ぶ。

其の六 くノ一は存在しなかった

女性の忍者がいたという記録は一切残っていない。忍術書の「くのいちの術」というのがあるのだが、これは女の人を使って手引きしてもらう術であって、女の忍者が何をやるという術ではないのだという。

家康奇跡の脱出劇!その時、忍者が動いた

戦国の闇の中で暗躍し続けた忍者たち。中には後の日本の歴史を大きく変える活躍があった。天正10年6月2日織田信長、落命。世に言う本能寺の変だ。この時、茶会で堺に来ていた徳川家康は、すぐさま三河へ引き返すことを決断。後に家康の人生最大の危機と言われる神君伊賀越えの始まりだ。この歴史に残る脱出劇は、いかにして成功したのか?その裏には忍びたちの知られざる活躍があった。

家康の下に「本能寺の変」の報せが届けられたのは、事件のわずか数時間後。実は家康は、かねてから京都に数人の忍びを送り込み、情報収集させていたのだ。この時、明智光秀1万5000の軍勢に対し、家康の付き添いはたったの30人。しかも2人の距離は、わずか40km。信長の首を取った勢いで、信長の盟友・家康を狙いに来るのは明らかだった。もし忍びの報せが1日でも遅れていたら、家康は大阪で死んでいたかもしれない。

家康の家臣たちが大和を取って帰ろうと話し合う中、意見する男がいた。男の名は服部半蔵正成。父の代から家康につかえる伊賀の名門・服部家の者だ。半蔵はなんと、山中に数多の山賊が潜んでいると言われる伊賀を通り抜けることを進言したのだ。しかも、家康の首には光秀によって賞金がかけられており、たった30人の護衛だけではとても超えられるものではなかった。

半蔵の進言を信じ、移動を開始した家康一行。同時に半蔵はある場所に向かった。それは伊賀の里。まずは同郷のよしみで伊賀に協力をお願いし、およそ200人の忍者を集めた。さらに半蔵は、なんと伊賀のライバルである甲賀にも護衛を要請したのだ。最終的に伊賀、甲賀合わせて300人もの忍者衆が集結したという。忍者の血筋である半蔵でなければ、これだけの護衛を集めることはできなかったかもしれない。

この時、半蔵は予定していたルートに先立って忍びを派遣し危険がないかを確かめていた。もし山賊が現れたら金子を渡し、道を開けてもらうこともあったという。さらに、忍び独自の五色の色を塗った米で暗号を伝え、より安全なルートへ導いていた。

それだけではない。影武者として忍びを放ち、山賊を欺いたという。事実、家康が通ったルートには複数の説が存在し、影武者を使ったことが一因とも考えられている。こうして家康は無事に三河へ。この活躍が認められた忍者は、後に高待遇で召抱えられることになる。もし忍者がいなければ、天下人は現れなかったかもしれない。