嘘か本当か分からない話

信じるか信じないかはあなた次第。嘘か本当か分からない話を紹介

【スポンサーリンク】

本当は違う魔王の正体!?明らかになる織田信長の真実!

f:id:ambiguousnews:20190425163257p:plain

旧態依然とした室町幕府を倒し、新たな時代を切り開いた戦国の革命児…そんな織田信長のイメージが近年、覆されはじめている。主流となりつつあるのは『朝廷や幕府の権威』を守ろうとする、まじめで保守的な織田信長像。

実は最後の室町将軍・足利義昭の政権維持のために懸命に奔走していた。将軍の天下のために戦えば戦うほど、同盟者に裏切られ苦境に陥る信長。マジメすぎた戦国の『魔王』の姿に迫る!

 

 世にもマジメな魔王!織田信長の真実を最新研究が語る

 抜群の人気を誇る信長だが、意外にも謎に包まれた武将と言えるかもしれない。実は信長は、関係する史料が比較的少ない人物だ。例えば、出したり受け取ったりした手紙で残っているのは1500点ほど。秀吉(8000点)や家康(4000点)の半分ほどでしかない。

そのため信長のイメージの多くは、江戸時代以降に書かれた創作物から来ている。それが研究にも影響を与えてきた。そんな中、5年ほど前から注目されているのが、直接関係する史料から信長像を見直す動きだ。

室町幕府の復興

信長が朱印に刻みスローガンとしてきた「天下布武(てんかふぶ)」。この言葉は、これまで武力による全国統一を意味するとされてきた。乱世に全国統一を宣言するという英雄・信長の野望。ところがこのスローガンが押された書状(名古屋市の熱田神宮所蔵)の内容は、野望とは程遠いものだった。

そもそも書状は、朝廷に宛てたもの。さらに内容は、朝廷からの贈り物に感謝しつつ、領地回復という先方の願いを叶えることを約束している。つまりこの手紙は、古くからの権威である朝廷への敬意が表れたもの。そこに押すハンコで、武力による全国統一を宣言するとは、なんだかおかしくないだろうか。

通説では、1565(永禄8)年、足利義昭からの書状が信長に届く。義明は、父・義晴と兄・義輝は元将軍という由緒ある家柄の人物。各地を流浪しながら将軍の座を狙って、大名たちに強力を要請していた。

この義昭について大正時代の歴史書には、「信長は義昭の自由を奪い実体のない将軍とした」とある。信長が、義昭を利用したというのだ。ところが直接関係する史料からは、信長のこうした姿勢は伺えない。

義昭は、信長以外にも強力を求める書状を多くの大名に出している。ところがその要請に本気で応えた形跡があるのは、信長一人なのだ。信長は、義昭に自らの決意を記した返事を送っている。

「ご入洛につき記された御内書、謹んで受け取りました。私は、義昭様の命令次第でいつでもお供する覚悟です」

史料をそのまま読むと、義昭に尽くそうとする信長の姿が見えてくる。

「天下布武」の本当の意味

実はあの「天下布武」も「武力での天下統一」を意味しないという説が有力になっている。その根拠は「天下」という言葉の当時の意味だ。この頃、日本に滞在したポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、「五畿内の領主が『天下の領主』と呼ばれる」と記している。

なんと「天下」は、全国という意味ではなく「五畿内」、つまり京都に近い限られた地域を指す思われる。これを踏まえ「天下布武」とは、「将軍が京にいられるように支える」という信長の決意を表すと考えられる。

自分の武力で義昭を京に連れて行き、荒れ果てた都を元の姿に戻す。将軍が安んじて京都にいる状態を実現する、「将軍の天下に武を布く」というスローガンだったのだ。

そして、もう1つ信長の史料に多く出てくるスローガンがある。それは「天下静謐(てんかせいひつ)」。室町幕府の正当な将軍が、「天下」つまり京都周辺を昔のように穏やかに治めているという意味だ。それが信長の理想だったと思われる。

義昭と信長の関係

義昭の手紙を受け取ってから3年後、力をつけた信長はいよいよ動き出す。軍勢を岐阜から進め、敵対勢力を蹴散らしながら京へ上った。そして、ひと月あまりで天下を支配していた三好氏を追い払った。

その直後、義昭は朝廷から晴れて征夷大将軍に任じられている。この頃の信長と義昭の関係についてある僧侶が残した言葉がある。

「義昭様の入洛に織田信長が付き従った」

そこから読み取れるのは、上洛の主体はあくまで義昭だったということだ。こうして将軍が3年ぶりに京都に戻ったことで、「天下静謐」という理想に一歩近づいた義昭と信長。義昭は、最大の功労者である信長に心からの感謝の意を示している。

「信長殿、わしはそなたを父のように思っている。そなたがいてこその義昭じゃ」

ところが、史料によると信長はこんなことを言い出す。

「天下布武も相成りましたるうえは、岐阜に立ち返り己の領地を治める身に戻りとう存じます」

全国統一の野望どころか、自分の国に戻ると言い始めた。すると…

「もはや御父は都におってくれぬのか?子であるわしを見捨てると申すか…」

義昭は、信長に傍に居て欲しいと頼んだ。二人が信頼関係で結ばれていたことがわかる。

信長が帰国して二ヶ月後、急ぎの報せがもたらされる。三好の軍勢に迫られて危機にひんした義昭を救うため、信長は京へと急いだ。降りしきる雪の中、先頭を駆けていく信長。軍勢が必死で追いかけたと言われる。

岐阜から京都までの120kmあまりをわずか一昼夜で駆け抜けた。この事件をきっかけに信長が義昭のために造ったものが、近年発掘されている。それは城。大きさはおよそ400m四方。後に徳川家が築いた二条城と比べても遜色ない大きさだ。二重の堀をすべて石垣で固めた厳重な造りだった。

史料から浮かび上がってきた新たな信長像。それは戦国乱世に室町幕府を中心とした秩序を取り戻そうとする、少し意外なものだった。

比叡山焼き打ち

1571年、信長による比叡山焼き打ち。死者は3000人に上ったと伝わっている。この出来事によって「残忍な独裁者」という信長の悪いイメージが定着した。信長はなぜ焼き打ちを行ったのか?実は、そこにも将軍に忠実に使える信長の意外な姿が浮かび上がる。

義昭が上洛した翌年、室町幕府が天下を正しく治めるという目的のため、義昭と信長は本格的に動き始める。信長がまず行ったのが、武力で各地の大名を打ち破ることではなく、義昭の意を受け各地の敵対する大名同士を和睦させることだった。

そのために書状を出している。例えば、川中島で何度も死闘を繰り広げた武田信玄と上杉謙信。さらには、九州北部をめぐって争っていた毛利元就と大友宗麟。和睦の呼びかけは全国に渡った。

一方、将軍の権威に従わない勢力に対し過激な姿勢を示したのは義昭だった。1570年4月、武藤氏の討伐という義昭の命を受けた信長は若狭の国へ遠征する。武藤氏は、若狭出身の義昭側近と対立関係にあったと思われる。信長は、あくまで義昭の命令で攻撃するのであって、そうではない形での軍事行動はしない。天下静謐を乱すことはやめろと言ったにも関わらず、それに従わないので信長が軍事力を行使して討つという流れだ。

ところが、この義昭の指示が思いがけない方向へ波及する。若狭の武将・武藤氏の背後に越前の有力戦国大名・朝倉義景がいたのだ。こうして義昭の命令で始まった戦いは、織田と朝倉の全面対決となった。

さらに…浅井長政が謀反を起こす。浅井長政は、信長の妹・お市の夫で同盟の相手。それが朝倉と通じ敵に回ったのだ。信長は、二人の強者に挟み撃ちにされた。信長の生涯最大のピンチと言われた状況、それは自らのせいというより、義昭に従ったため起きたことだったのだ。

この時は、なんか生き延びた信長。しかし、その直後、義昭のために生涯消えない汚名を負うことなる。若狭攻めの三ヶ月後、四国に追いやられていた三好の軍勢が、再び都に攻め上がろうとした。この事態を受けて義昭が動いた。

義昭は、またも信長の軍勢を中心とする3万とも言われる兵を動かし、三好に備えた。一方の三好も味方を募った。大坂本願寺や延暦寺、浅井朝倉などを自らの陣営に引き入れた。この時、浅井と朝倉が近江から都に向けて進軍、琵琶湖のほとりで織田方の軍勢との戦いが起きた。この事態に信長も救援に向かった。

劣勢となった浅井朝倉の連合軍は、近くの寺に逃げ込んだ。信長に焼き打ちされることとなる比叡山延暦寺だ。信長は、延暦寺と粘り強く交渉した。

「私たちに強力してくれるなら、かつての延暦寺の領地を回復させましょう。それができぬなら中立を守ってほしい。もしもこのまま、浅井朝倉の味方をするのなら焼き打ちせざるをえない」

ところが延暦寺は、一切返答しない。信長は待った。そして1年近く経ったころ…比叡山焼き打ちを決める。天下静謐を保つための苦渋の決断だった。だが、当時の人々は厳しく批判した。こうして天下静謐のために働いた信長は、残忍な征服者のイメージを纏うことになったのだ。

将軍義昭の不正を正す

義昭が、寺社や公家衆の所領を好き勝手に掠め取っているという噂が流れる。

「平野神社の領地は義昭のものにされた。それを家来に与えたようだ」(言継卿記)

世を正しく治めるべき将軍が、他人の土地を自分のものにしたという噂。マジメに天下静謐を目指す信長にとって許しがたいことだった。信長は、合わせて21か条にも及ぶ、義昭の行動規範を定めた。寺や神社の領地を勝手に奪うことを禁じた。他にも、義昭が理由なく金品を求めることを禁じたり、朝廷へきちんと貢献することなどを求めた。天下静謐のためであれば、義昭に対しても態度を変えないマジメな信長。

しかし、次第に義昭は信長を疎ましく感じるようになっていったようだ。さらにその反感は、それまで信長が良好な関係を保っていた各地の勢力にも広がった。同盟関係にあった武田信玄も、信長と袂を分けた。

1573年2月、ついに将軍・義昭が、信長の敵対勢力と結ぶことを決める。この時、信長が義昭の側近に送った手紙がある。

「義昭様に丁寧にご説明申し上げようと思っています。共に天下を再興することが、私の心からの望みなのです」

自分が、義昭に裏切られるとは夢にも思っていなかった信長。しかし、人一倍マジメであったが故に、周囲との距離は離れていく一方だった。

魔王と呼ばれた訳

宣教師ルイス・フロイスによると…。

信長のもとに、袂を分かった武田信玄の手紙が届いた。その署名に「天台座主 信玄」とあった。天台座主とは比叡山延暦寺のトップのこと。信玄は、比叡山を焼き打ちした信長を強烈に皮肉ったのだ。

これに対して信長は、返信に「第六天の魔王 信長」と署名した。仏道の修行を妨げる神のことだ。売り言葉に買い言葉で返した言葉が、後世恐ろしいイメージにつながるとは、本人も思っていなかったはずだろう。

 朝廷の権威をよりどころにした天下

共に天下静謐を目指して5年近く、ついに足利義昭は信長に対して兵を挙げる。信長はやむなく義昭が籠る城に攻めかかった。そして2日後。信長の家臣団の前に連れ出された義昭。家臣たちが覚悟を決めろと凄むなか、信長は義昭の命は奪わずに追放した。

この結果240年近く続いた室町幕府は事実上滅亡し、新たな時代が始まる。この時、信長は難しい課題に直面する。将軍を追放した結果、天下静謐のよりどころがなくなってしまったのだ。

そこで信長が頼みにしたのは朝廷だった。信長は当時、経済的に苦しかった朝廷のため奔走を始める。天皇家や公家の領地を一から調べ、長い戦乱で奪われた土地があれば、それに代わるものを補償した。

信長はこれ以降、朝廷という権威をよりどころに天下静謐を目指すことになる。朝廷は信長の働きを評価し、「右近衛大将」という義昭を上回る高い官職を与えた。信長は「天下」つまり京都周辺の敵対勢力と戦いを続け、さらに7年かけて30近い国を支配下に治めた。

ついに戦国の覇者となった信長。それはひたすらに天下静謐を追い求めた結果だったのだ。ところが、この頃から信長に不可解な行動が見られるようになる。全くぶれなかった信長に生じたきしみ。それは、突然の死の1年ほど前のこと。

信長が決めた四国攻めだ。そのころ、四国で勢力を広めていたのが、土佐の長宗我部元親。かねてから信長に承認を得て、四国全域へと勢力を広めていた。長宗我部氏は、天下静謐に敵対的なことをしたわけではないのに、信長がそこに介入していったというのには違和感を覚える。

5年前に信長の四国攻めをめぐる書状が発見された。信長のある家臣が元親に出したものだ。

「元親様のご不満はもっともなこと。どうか穏やかなお気持ちを保ってください」

元親を懸命になだめようとしていたのは、信長から元親との仲介を任されていた明智光秀だった。それまで信長を支えてきた光秀。天下静謐と矛盾する行動を強いられた時、一体何を思ったのか。

1582年6月2日、信長の命で四国攻めが始まろうとしていたまさにその日。信長は明智光秀の裏切りにあう。天下静謐に誰よりもマジメに向き合った織田信長。四国攻めのその先に、一体どのような天下を思い描いていたのか?永遠の謎となった。

織田信長の死から437年、今私たちが思い描く信長像は、史料が示す姿と一致しない。葬儀が行われた大徳寺で、その謎に迫る手がかりが見つかった。信長の肖像画だ。近年、修理が行われ意外な事実が浮かび上がった。

f:id:ambiguousnews:20190425154454j:plain

表に描かれた信長は、薄い水色と茶色の控えめな衣装を身にまとい、腰には脇差を1本差している。ところが、その下に描かれていたのは、左右で色が違う豪華な衣装、刀は大小2本を差している。さらに赤外線をあてて調べてみると髭の形を変え、威厳を消し去る修正が施されていた。

一体、誰がなぜこのように描き変えさせたのか?絵の制作年代などから指示を出したのは、信長の後に天下人となった豊臣秀吉と見られている。もう自分の治世だからということで、地味な作品へと描き直させたのだ。信長に対するコンプレックスの結果だったのかもしれない。

これ以降、信長の悪いイメージが形作られていく。江戸時代初めに記された秀吉の伝記。

「信長公が家臣に領地を与えるやり方は、帳尻が合わないものだった」

200年後の江戸後期には、残忍なイメージが語られるようになった。鳴かぬなら殺してしまえホトトギス。信長ならばこう詠むだろうと作られた歌が世に広まる。ところが、明治になると信長は一転、英雄になる。

朝廷を支えた信長は、天皇中心の国づくりを進めた明治新政府にとって好都合だったのだ。教科書でも信長の忠誠心が強調され、それは太平洋戦争が終わるまで続いた。こうして英雄と悪役を行き来する信長像が形作られたのだ。

そして今、私たちは本物の信長像に迫ることができたのだろうか?信長の研究に終わりはない…