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天下統一を諦めなかった伊達政宗!カトリックの王になることを目論んでいた!?

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イタリアの大統領官邸であるクイリナーレ宮殿。実はここに、400年前ローマにやって来たあるサムライの姿が描かれているのをご存知だろうか。頬杖をつきながら通訳の言うことを聞いている人物。この支倉常長(はせくらつねなが)こそが、そのサムライだ。

1615年、ローマを治めていた教皇の指示でここに描かれたという。ローマで熱狂的な歓迎を受けたサムライたち。しかし近年、その旅にはとんでもない秘密が隠されていた可能性が浮かび上がっている。なぜサムライはローマにやって来たのか?その驚くべき真相とは!

ローマに保存されている手紙

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イタリアの首都ローマの中にあるバチカン市国。10億人を超える世界中のカトリック教者の聖地だ。ここに支倉常長に関する驚くべき資料が残っている。それは2つの手紙。1つは日本語、もう1つはラテン語で記されている。なんと金箔と銀箔を散らした豪華な和紙に書かれている。

この手紙は、支倉一行がローマにやって来た時に当時の教皇に手渡した物と言われている。2つの手紙は同じ内容で、末尾に送り主のサインがある。「伊達政宗」サムライたちは、彼の命令でローマまでやって来たのだ。

伊達政宗と言えば、独眼竜と恐れられ東北の覇者としてその名を轟かせた戦国武将だ。さらに花押の横には慶長18年の日付がある。この頃、すでに日本では江戸幕府が開かれ家康の権力が頂点に達しようとしていた。そんな時代になぜ、政宗は遥かイタリアまでサムライを送ったのか?

近年、様々な研究によってその旅には、政宗の驚くべき計画があった可能性が指摘されている。伊達政宗は天下を覆そうとしていた!?

海外派遣までの経緯

400年前、常長一行が乗った船が宮城県石巻市で再現されている。サン・ファン・バウティスタ号、全長60m、重さ500t、江戸時代に造られた船としては最大級の大きさだ。当時、日本にいたスペイン人の協力を得て、仙台藩が国内で初めて造った西洋式の帆船だった。

当時、サムライや商人、スペイン人宣教師ら合わせて180人が旅を共にしたそうだ。船には食事を調理するためのかまどが備え付けられ、鶏や豚など家畜も一緒に乗せられた。当時、幕府はすでに鎖国政策を始めていた。そのさなか、なぜ海外に渡るための船の建造を政宗に許したのか…。

その理由は、新しい交易ルートの開拓だった。南蛮人を相手に長崎と平戸で行われていた交易が莫大な利益を生むことを知っていた家康は、その拠点を東日本にも作ろうと考えていたのだ。大きな港がたくさんある仙台藩は、その点申し分ない。しかも、当時は豊臣秀吉の子、秀頼が健在で徳川家と豊臣家は勢力を分け合い争っていた。そのため、豊臣勢が集まる西日本ではなく、東日本に交易の拠点を作ろうとしたのだ。

さらに当時の仙台藩もそれを強く望んだ事情があった。1611年12月2日慶長三陸地震により起こった津波で、領内沿岸部がかなりの被害にあったのだ。政宗が施設の派遣を協議し始めたのは、大地震の2週間後であることから、政宗が海外交易が生む富で藩を蘇らそうとしたのではないかと考えられている。

メキシコ驚きの道中

海外交易の相手は、スペイン領のメキシコ。世界最大の銀の生産国として発展していた。一行を率いる大使に任命されたのが支倉常長だった。常長は若い頃から政宗の側近だった男。機転が効き辛抱強い彼にこの大役を任せたのだ。

大地震から2年後、一行は月の浦から出航したと伝えられている。そして太平洋を3ヶ月かけ渡りメキシコへ。荒涼とした灼熱の大地と不思議な植物、それが常長たちが初めて見た異国の風景だった。彼らは約1ヶ月かけて陸路で首都メキシコシティへ向かった。

街の中心に当時の面影を残す旧市街がある。常長たちが訪ねたという教会も現存している。サン・フランシスコ教会、当時、教会の隣にあった修道院で一行は寝泊りしたという。彼らは黄金に輝く祭壇を見上げながら約1ヶ月、ここに滞在したそうだ。

一行は、この町でメキシコを治めていた副王にも謁見し、贈り物を手渡している。なんと、その時の品とされるものが伝えられている。柄や鞘に葵の紋が施された太刀で、日本国王からの贈答品と考えられている。珍しい手土産と共に貿易を望む一行に対し、副王はスペイン本国の回答を待つように答えている。

本来、使節の役目はここで終わりとなるはず。ところが、常長は副王に自らがヨーロッパに渡るための船の手配を頼んでいる。なぜなら彼らにとっては、スペインはおろかその先、イタリアまで行くことが当初からの目的だったからだ。

そこには復興のための海外交易を求めるだけでなく、徳川の天下を覆すさらに野心的な計画までが秘められていたという。

キリスト教への改宗

常長一行は、メキシコから5ヶ月かけてスペインへ。太平洋と大西洋、2つの海を超えてヨーロッパまで行った初めての日本人は彼らだった。スペインでは名だたる大都市を歴訪している。

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旅の途中、常長の体には大きな変化が起きていた。それを物語るのが彼が持ち帰った肖像画だ。常長の持ち帰った多くは、国宝に指定されているが、ほとんどがキリスト教にまつわるものばかりだ。スペインに入ってから洗礼を受けており、その時にキリスト教徒になったと思われる。

当時、スペインは貿易とキリスト教の布教をセットで考える国で、キリスト教徒とのみ貿易を行う商教一致制作をとっていた。そのため、キリスト教徒になっていた方がより外交交渉もスムーズにいくと常長は考えていた。

常長は自らの洗礼をより効果的にするため、洗礼の場にスペイン国王フェリペ三世に臨席を求め、王から洗礼名(ドン・フィリッポ・フランシスコ)をもらっている。日本を出て1年3ヶ月後の1615年2月17日、彼はキリスト教徒となったのだ。

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一方同じ頃、日本にいる政宗もある行動を起こしていた。当時、幕府は秀吉の時代から受け継いだキリスト教への弾圧を日に日に強めていた。信徒虐殺の報は、すぐさま世界各地に広まり、衝撃を与えている。

しかし、政宗は幕府の意向に背き、多くの信者や宣教師を領内に受け入れている。水沢は安息の地を求めるキリシタンの隠れ里の1つだったのだ。常長の洗礼と政宗によるキリシタン保護、これこそ密命との深い関わりがあるという。

ローマ教皇との謁見こそ常長、最大の使命。そのために自らがキリスト教徒になることも彼は厭わなかったのだ。日本をたってから2年後、一行は旅の最終終着地ローマに到着した。

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一行のローマ滞在を世話をした貴族の家には、この時の常長の姿が残されている。400年前常長たちは、馬や馬車に乗っておよそ1時間の道のりを練り歩いたと言われている。記録によれば、パレードを見るために、窓辺にわざわざ席を作って見物した貴婦人までいたとある。

政宗の密命とは

一行は、ローマ教皇との面会を求めバチカンへ。相手はサン・ピエトロ大聖堂を完成させ、当時のキリスト教世界で絶大な力を持っていたパウロ五世。慣習に従い常長は、教皇の前に膝まづいたとある。そして手渡したのが、あの日本語とラテン語で書かれた2つの親書だった。

親書にはローマ字表記の政宗の名前もあり、ダテマサムネではなく、イダテマサムネだったことがわかる。親書には、仙台領内の布教のために、教皇が推薦する宣教師を送って欲しいと頼んでいる。さらに、日本がスペイン領だったメキシコと交易を行うための後押しも頼んでいる。その文面には、直接密命を感じさせるような記述はない。ところが、気になる一文が日本語の親書にはあったのだ。

「常長が口頭で申し上げることある」これこそが密命であった証拠と考える研究者がいる。大泉光一さんは、50年支倉使節団を調査してきた研究者。メキシコやヨーロッパを訪ね各地の古文書を解読し、政宗の野望を示す重要な文書を見つけたそうだ。

政宗のローマ教皇に宛てた親書の中の請願事項についての回答文書がある。だが、請願していないことも回答文書にあるという。つまり、手紙に書かれていないことに対する回答が存在し、これこそ常長が教皇に伝えた密命への答えだというのだ。

その重要な文書があったのが、バチカン機密文書館。文書棚の総全長がなんと85kmにもなる世界で最も重要な記録センターの1つだ。そこには天下を覆す驚くべき秘策が記されていた。

当時、バチカンでは政宗の請願に対し繰り返し検討が行われ、その回答の下書きが国家機密として保管されていたのだ。大泉さんが注目したのがこの不可解な一文。「(政宗を)剣と帽子に叙任する」。果たしてこの言葉が意味するものとは…

 剣と帽子はそのものを意味するのではなく、王としての権威を象徴的に示した言葉。つまり、常長と教皇の間で交わされたやり取りは、領内に多くのキリスト教徒を匿う政宗をカトリックの王に叙任し、騎士団の創設を認めて欲しいというものだった。

この時代、西国には家康に歯向かう豊臣方の戦国大名やキリシタン大名が割拠していて、天下統一の懸念材料となっていた。政宗はカトリック王の名のもとに、日本国内にいる30万のキリスト教徒とキリシタン大名を見方につければ天下を狙うチャンスが生まれると考えた。これこそ、政宗が常長を送った真の目的だというのだ。

事実、日本にいた宣教師がローマ教皇に送った文書にも政宗の野望を裏付ける一文がある。しかし、その野望はある1点で狂うことになる。その答えも回答書にあった。政宗の野望を打ち砕いたのはこの文書。

(政宗を)剣と帽子に叙任する件について

王(政宗)がキリシタンではないために協議することができない。しかし、キリスト教徒になれば、あらゆる満足(請願)はすぐにあたえられるだろう。

 

実は、日本にいた政宗は洗礼を受けていなかった。その理由は、藩を守るため。仮に弾圧が激しくなれば自分も犠牲になってしまい、藩も潰されてしまう。そのため洗礼を受けることができなかったのだ。

常長は、教皇から信任を得るために各地を転々としながら、5年も粘り強く交渉を続けている。しかし、ついに返答を受け取ることはできなかった。その間、日本では大坂の陣で家康が豊臣方に勝利し、幕府を磐石なものに。常長が仙台へと戻った時には、もはや天下を覆せる状況ではなかった。この時、政宗の天下への野望は潰えたのだ。

政宗は、常長が帰国後、幕府の命に従い領内にキリシタン禁教令を出し、彼らの弾圧を始めたとされている。そして、常長もキリスト教の信仰を捨て、帰国から2年後、病を得て亡くなったとされている。享年52。

常長のその後

しかし、定説とは異なる常長のその後の物語がある。宮城県黒川群大郷町。この地に代々住む山口さんの家には、常長は病死しておらず数十年生き延びていたという話が伝わっている。

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墓石の文字は風化してほとんど読めなくなっているが、かつては日付の下に「支倉氏」とはっきり刻まれていたそうだ。墓に刻まれたのは命日と戒名とされている。もし常長が承應3年2月17日に亡くなったのであれば、彼は84際まで生きたことになる。

キリシタン弾圧で徳川に命を奪われるということで、政宗の計らいで隠れ人となって過ごしていたと言われている。これが事実なら、政宗は常長を守るため、表向き病死にして匿ったことになる。ここには2人の絆の強さを伝える話があった。

その後、政宗は治水事業を進め、藩を日本一の米どころとして蘇らせている。天下への夢は破れても、その遺産は仙台の地に受け継がれている。