嘘か本当か分からない話

信じるか信じないかはあなた次第。嘘か本当か分からない話を紹介

【スポンサーリンク】

お好み焼き発祥の地は東京!?お好み焼き屋は男と女の密会場所だった

f:id:ambiguousnews:20190516161041p:plain

私たちがよく知る日本の文豪たち。彼らが残した偉大な作品には、知られざる食の秘密が隠されている。例えば、夏目漱石が書いた『三四郎』の牛鍋を食べるシーンにこんな一節が…

「学生は皿に盛った肉を手掴みにして、座敷の壁へ叩きつける。」

肉を投げる?いったいなぜ?

このように文豪の作品には、教科書に載らない庶民の食文化が隠されている。名作の中に散りばめられた食のミステリーを解き明かす!

 

 文学グルメミステリー ~あの食べ物に秘められた真実~

牛鍋の肉を壁へ投げつける学生たち

『吾輩は猫である』、『こころ』など数多くの傑作を残した夏目漱石。その代表作の1つが『三四郎』。明治末期、東京の大学に進学した三四郎が、自由気ままな都会の女性に出会い恋に落ちる青春物語だ。

そこには今では信じられないような奇妙な行動が描かれている。三四郎たち学生が牛鍋を食べるシーンで…

「学生は皿に盛った肉を手掴みにして、座敷の壁へ叩きつける。」

彼らはなぜ肉を壁に投げつけているのか?

江戸時代が終わり明治時代が始まると庶民の生活にある変化が…。それが肉を食べるようになったこと。江戸時代まで日本人の主食は、米と魚だったが明治政府や福沢諭吉などの知識人が、西洋文化を積極的に受け入れようと庶民に肉食を勧めていった。

そこに登場したのが牛鍋。その味付けは庶民の心を掴み、牛鍋は瞬く間に人気グルメとなった。そんな中、ある問題が!

牛鍋ブームによって牛肉の供給が需要に追いつかなくなっていた。当時、馬肉は牛肉に比べて圧倒的に安く、そこに目をつけた悪質な業者が密かに馬肉を牛肉の中に混入し始めたのだ。

この食肉偽装は、全国で横行。警視庁が大規模な摘発に乗り出すも、大正時代までなくなることはなかった。その結果、庶民の間で流行したのがあの行動。

「牛肉屋の牛が馬肉かもしれないという疑惑がある。学生は皿に盛った肉を手掴みにして、座敷の壁へ叩きつける。落ちれば牛肉で、貼り付けば馬肉だという。」

壁にぶつけると食肉偽装を見破れるという根拠のない噂が広まり、実際に明治時代の庶民は一種のまじないとして肉を壁に投げつけていたのだ。

大阪と東京のたこ焼きの違い

昭和を代表する芥川賞作家・開高健。1960年代ベトナム戦争従軍の実体験を元にした『輝ける闇』は、戦争文学の金字塔と言われている。そんな開高が1974年に書いた『新しい天体』は、昭和初期の官僚を主人公にした物語。

相対的景気調査官になった官僚が、余った予算でさまざまなグルメを食べ歩き、数字に表れない景気の実態を調べるという不思議な話だ。その景気調査官が、東京銀座のたこ焼き店を訪れるというシーンでこんな一節が…

「たこ焼きは一片のタコのほかにサクラエビだの、揚げ玉(天かす)だの、トリ肉のミンチだの、いろいろなものがもったり重いメリケン粉の衣にくるまれた…」

関西のたこ焼きは、昆布だしで溶いた小麦粉で生地が作られているため、生地自体に味がしっかりとついている。一方、東京には昆布だし文化が元々存在していなかった。そのためたこ焼きの生地に味をつけようと鶏肉のミンチなどを混ぜ込む店が多かったのだ。

ではなぜ東京には昆布だし文化がなかったのか?その答えは小説『暖簾』の中にある。

『白い巨塔』、『沈まぬ太陽』など社会派小説で知られる小説家・山崎豊子。彼女の実家は創業170年を超える大阪・南船場の老舗昆布店で、その店をモデルに書いたデビュー作が『暖簾』だ。その暖簾の一節で…

「徳川時代から諸国の物産の集積地として、大名の蔵屋敷が棟を並べた大阪へ…(省略)。近江商人が来、木綿類の日用品を蝦夷松前(北海道)へ積み上がり、帰途の空船に昆布を積み下って来た。」

江戸時代の大阪は“天下の台所”と呼ばれ、さまざまな食材が集まる日本一の商業地だった。そのため、江戸時代の海上交易は大阪を中心に発達。北海道の名産品昆布も、日本海から瀬戸内海を通り大阪に運ばれるのが主要な交易ルート。

北海道-東京ルートができたのはずっと後で、そのため質の良い昆布が東京に出回ることが少なく、東京には昆布だし文化が根付かなかったのだ。

お好み焼きのルーツは東京!?

ノーベル賞作家・川端康成にも影響を与えた昭和の大文豪・高見順。そんな彼の代表作が昭和14年に発表された『如何なる星の下に』。戦前の昭和、東京浅草を舞台に小説家の男が劇場の踊り子に思いを寄せる小説だ。そこに書かれた一節…

「軒並み芸人の家だらけの浅草田島町の一区画のなかに、私の行きつけのお好み焼き屋がある。普通のしもた屋がお好み焼き屋をやっているのが、三軒向かい合っていた。」

大阪のお好み焼きが東京にもこの頃、すでに進出していた?

だがどれだけ文献や資料を探しても戦前の大阪には、お好み焼きのことを書いた文献は一切出てこない。そもそもお好み焼き屋というのは、男と女の密会の場所だったのだ。

お好み焼きのルーツ。それは明治時代の子供たちが、路上で楽しんだある遊びだと言われている。溶いた小麦粉を匙ですくい、鉄板の上で文字や絵を書いて食べる文字焼きというもの。その様子から遊戯料理と呼ばれた。

それを見ていた店の店主が、大人の男と女でもあんなふうに好きなものを二人で焼いて食べたら楽しいんじゃないかと考え、大人の男女カップルのために文字焼きを出す店が浅草に現れた。

六畳一間、二人きりで好きなものを焼くというシステムが評判を呼び、浅草の踊り子が贔屓の男とこっそりやって来るようになった。高見順もまた、自らの小説で書いた通り、浅草の踊り子とその店へやって来た。

好いた者同士が、好きなものを焼いて食べるということから、昭和12年の浅草で高見順が作った言葉、それがお好み焼きのはじまりだと言われている。このお好み焼きが大阪商人の目にとまって、その後大阪にも広がったのだ。

大阪のお好み焼きは、昭和21年ぼてぢゅう総本家が出来たのが始まりだと言われている。(諸説あり)

アジアの製菓王と呼ばれた男

『父の詫び状』を書いたのは戦後の昭和を代表する直木賞作家であり、脚本家の向田邦子だ。その中の「お八つの時間」というエッセイには、昭和10年ごろの子供のおやつが列挙されている。

ビスケットやカステラ、チョコにせんべい、今でも子供たちが大好きな大道のお菓子が並ぶ。その中の1つ、キャラメルを見てみるとミルクキャラメル、クリームキャラメル、そして新高キャラメル?

突然、聞きなれないキャラメルの名前が登場する。一体このキャラメルの正体は?

そこには誰も知らないある男の激動のドラマが込められていた。

佐賀で生まれた森平太郎。菓子商を営んでいた彼は、当時日本領になったばかりの台湾で佐賀の菓子を広めようとしていた。そもそも佐賀県は、江戸時代から菓子業が盛ん。外国から輸入され、長崎港に入ってきた砂糖を内地へ運ぶために使われていたのが長崎街道、別名シュガーロード。

佐賀はこのシュガーロードの中間地点であったため、砂糖を使った菓子業者が数多く生まれた。森永製菓の森永太一郎、江崎グリコの江崎利一も共に佐賀県出身だ。大きな希望を抱き、台湾へ渡った平太郎。

彼が最初に始めたのが、日本の伝統菓子・饅頭作り。平太郎は妻と共にその饅頭を1つ1つ売り歩いていった。砂糖を活かして作った饅頭は、美味しいと評判に。平太郎は、さらに洋菓子の開発へと手をつけていく。

平太郎が手がけた洋菓子、それがスイートポテト。日頃からサツマイモをよく食べる台湾の人々に受けスイートポテトは大ヒット。これを機に1905年、台湾で一番高い山、新高山から名前を取り、新高製菓を創業した。

いつしか台湾一の製菓メーカーとなっていた新高製菓。次なる夢は、日本一の菓子メーカーになること。しかし、なかなか売上は上がらなかった。新高製菓はキャラメルを日本で売り出そうとしていた。

だが当時は、森永製菓の「ミルクキャラメル」、江崎グリコの「グリコ」が市場を独占し、そう簡単には行かなかった。独自路線を見出した平太郎は、台湾の名産バナナを使った「新高バナナキャラメル」を開発。当時の日本では高価だったバナナの味を楽しめるお菓子として一気に売上を伸ばしていった。

新高製菓の勢いはとどまることを知らず、日本初のチューインガムや風船ガムを開発。商品は日本だけでなく、中国でも飛ぶように売れ、いつしか平太郎はアジアの製菓王と呼ばれるようになったのだ。

その後、新高製菓は順調に事業を拡大していったのだが…。戦争が終わった翌年の1946年、平太郎は死去。時代の波に乗りきれず、新高製菓も1971年廃業となった。森平太郎の夢が詰まった新高製菓。しかし、その味を受け継ぐ者は、もうどこにも存在しない。アジアの菓子王が残した夢の残り香が、向田邦子のエッセイにひっそりと埋め込まれているのみである。