お馴染み岡田斗司夫さんのジブリ作品解説。今回はナウシカと耳をすませばだったのですが、大部分が前回に引き続きナウシカでボリュームが多かったので新たに記事にしました。
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風の谷のナウシカの魅力にせまる!
風の谷を図解
巨神兵を運んできたトルメキアの船が墜落したのが城の下にある畑。そして軍艦が侵入してきたのが海側ではなく、腐海側の谷からということでトルメキアの悪意が読み取れます。
わざわざ風の谷の人々が気づかない谷から侵入。しかも胞子が付いた船で村まで侵入し、そのまま城を制圧した。その頃、ナウシカたちは墜落地点で作業していたので、はっと見上げると、もうトルメキアの軍艦が入っていたということになっています。
このように地形を利用したトルメキアの悪辣な襲撃と、ナウシカが激昂した理由がわかります。正々堂々と攻め込んでくるなら海から来るはずなのに、谷の間をわざわざくぐって来て侵略したトルメキア。
この後、ナウシカが留守中に貯水池の近くの木に胞子を見つけた村人たちは、大騒ぎし木を燃やすために火炎放射器を返してもらうことになります。そうして武装蜂起した村人たちは、高低差を活かして城を攻めトルメキアを防戦一方に追い込みます。
しかし、最終的にトルメキアの正規軍に押された村人たちは、どんどんと後退せざる得なくなくなり、どんどんと谷を上り、最終的には蟲避け塔の先の宇宙船に立てこもることになる。
このことから村人たちの武装蜂起が、どれほど命懸けだったかがわかります。城を上から攻めるということは、後退する時は谷を上がっていって砂に胞子が付いた危険な地帯に住むしかなくなるわけですから。
最終的に王蟲たちは、酸の海を越えてやって来ます。それに対して巨神兵は風の谷から運ばれて蟲避け塔を越えた辺りで対決することになります。このように風の谷のナウシカは、位置関係的に非常にわかりやすくなっています。
OPのタペストリー解説
【画像】© 1984 Studio Ghibli・H
OPは、世界が腐海に飲まれるまでの歴史をタペストリーで見せてくれています。この布の上に描かれた水彩画は、宮崎監督の作業が全て完了してから監督自身が作品を振り返りながら描いたもの。なのでアニメ作成前に描かれた絵コンテとは少し違っている。
ナウシカを象徴する風の谷の世界とトルメキアを象徴する二つ頭の蛇が描かれているのは同じなんですが、アニメの方の蛇は剣に向かって舌を出しているというデザインに変わっています。
大した違いには見えませんが、これには大きな違いがあると言います。実は、宮崎監督は風の谷(青)とトルメキア(赤)の位置を逆にしたいと言い出します。これは、剣をトルメキアのクシャナ王女、女性をナウシカと見立ててクシャナとナウシカ2人の話だという意味を強く出したかったため。ところが、鈴木敏夫に『風の谷のナウシカ』という話なのだからナウシカに焦点を当てようと言われて渋々元に戻した。
ナウシカを制作しているうちに、クシャナとナウシカは同じ盾の表と裏だという意識が強まりクシャナの存在感が増したという。ナウシカは、同じ悩みを持った王女2人の話なのです。
このように作者は何を思って作ったのか?というのは考えても意味がない場合もあります。宮崎監督自身も何のためにこの映画を作るのか、この映画で何を言いたいのか、そんなことがわかったら苦労はないと発言している。
次に出てくるタペストリー。絵コンテの解説には、かつて人は大いに栄え、天に届く壮麗な都市を築き、奇跡の技を持って天翔ける船を作り、星々にまで運行させるに至ったとあります。
流れ星や太陽より上を飛んでいるので、宇宙空間を飛ぶ船になっている。別の太陽系へ行っているというのを暗示させるために星などが描かれている。ここに描かれているビルは、天まで届く建物と絵コンテで指示されており、高さ数千メートルくらいの建物だと想像できる。
人々が巨神兵を作る様子も描かれている。欄外の上部には繁栄の象徴であるブタが、下部には剣が描かれている。これは飽きるほど食べているのに、その中でも戦いを止めないということが表現されている。そんな中で巨神兵という生き物が作られた。人間が人型の物を作る不気味さがよく出ている。
そして遂に戦争が始まります。欄外には骸骨が描かれており、いよいよ死の世界が始まったのがわかります。巨神兵が口から火を吹いてビルの上から人が落ちている。高さ数千メートルのビルが全て破壊され、焼き尽くされて世界が滅びつつある。
この後にセルで巨神兵が描かれるシーンが来るのだが、このタペストリーとセルを繋ぐ演出が巧みだという。タペストリーからいきなりセルに変わるのではなく、一度タペストリーの巨神の顔がアップになり、それからセルの巨神兵のカットへと流れていく。
このシーンで庵野秀明は、「こういうOPうまいなぁ」と発言しており、このカット繋ぎに関心している。ワンカットアップにすることで、巨神兵が見ているものは何なのかと視聴者が一瞬思い描いた瞬間に、セルが映る。そうすると高さ数千メートルのビルが破壊されている所に凄く大きいモノが立っている、巨神兵の目から目へ注意が行くようになっているという。
この流れは論理的なものではない。秀才タイプのアニメ監督にはできない、天才的な生理的な発想で宮崎監督だからできたことなのだという。
では実際、どのようなことがあったのか?数千メートルの物凄く大きな巨人がびっしりと左右に隊列を組んで地平線まで連なった状態で世界を蹂躙し、何者も逃さず皆殺しにするということがあったのを巨神兵のカットは表している。
その結果、全ての物が火に焼べられて、植物、動物、人間、生き物全てが火の中に消えていったとタペストリーで語られる。この後、ナウシカの世界に出てくるカエル、やトリウマは全て遺伝子操作された生物というのは、ここで人間以外の生物が全て消滅してしまったからだということがわかります。
ここでもう一度アニメの画面に戻ります。下で紅蓮の炎に焼かれるビルと巨神兵の比率に注目すると、やはり巨神兵が凄く大きいとわかります。数千メートルある生き物が隊列を成して歩いている。
ハウルの動く城で、ハウルが空中で戦っているシーンもそうなのだが、宮崎監督は大量破壊、大量虐殺を描く時に地面を描きたがらない。未来少年コナンの時もそうだったが、空や高い所からの視点でどういうことがあったのかを見せて、地面で実際にどのように人が死んでいくのか、逃げ出すのかというのは本当に描かない。
これは子供向けの作品ということを強く意識しているためで、B29による空襲をはっきりと描いてしまう高畑監督との差だという。
タペストリーシーンの半分くらいは巨神兵が描かれている。地球の丸みが僅かにわかるような所を去っていく巨神兵。これは、ただ単に地面が盛り上がっているのではなく、軽く地球の丸みを描くことによって、巨神兵の大きさを出そうとしている。
サイズ感からアニメに出てくる巨神兵の化石や、最後に復活する巨神兵とは違う種族だとわかります。これが本当に怖い巨神兵で、この巨神兵はアニメ版でも漫画版でも復活はしていない。
これは蟲ではない。死の鳥と絵コンテには書かれており、具体的に鳥が飛んでいるという意味ではなく、ビルが倒れて世界が滅びた中にドクロを咥えた鳥だけが飛んでいる。
つまり死が世界を支配していたのを表している。何1つ生き残ったものはないと思わせた世界で、欄外下部には虫の幼虫が、上部には骨が連続した先にダンゴ虫のような物が現れる。死の世界から虫の世界が始まっているのがわかります。
新たなる生態系の誕生。欄外の上部はダンゴ虫、下部は太陽になっている。太陽というのは日々を表しており、新たなる世界が始まったことを表している。その世界は蟲と細菌の世界だということがわかります。
欄外では、虫が段々と紋様になってきている。太陽の繰り返しも紋様へ変化する。なぜ紋様なのかは、現在に近づいてきているからで、聖書で始まりのページや章の最初のページの文字が、凄く複雑な飾り文字になっているのを表している。ここから新しい人の世界が始まるというのを意味している。
閉じ込められた人々がそこから出てきて何かに救いを求めているのがわかります。
ここでBGMが盛り上がり、新たなる伝説が始まります。いずれ訪れる白い翼を持ち青い衣を着た女神がこの世界をもう一度救ってくれるだろうという所から急に雲のカットに切り替わります。
この時点で視聴者は、物語を見終えた気分になってしまう。それほど見事な演出になっている。暗い話を見せた後に明るい雲の画を見せて視聴者の気持ちを一気に明るくし、気持ちを切り替えさせるという凄い演出がされている。
ナウシカの雲のカット
暗い画から抜けのいい空のカット。雲が左右に動き壮大なスケールを感じさせている。
大空を渡る雲を見せて、その雲が腐海に陰を落としている。横から見た空から俯瞰で状況全体を見せている。
その雲が作った陰の中から白い飛行機が現れて、視聴者はこれが羽を持った天使なんだと思う。
その瞬間、飛行機がアップになる。この空を飛ぶメーヴェを前に進めるのではなく、左側にスライドして飛ばすことで浮遊感を出している。速く飛んでいるのではなく、ふわりと飛んでいるというイメージを出すための演出になっている。
腐海に影を落とす雲、その陰の中から現れるナウシカ、2カット目と3カット目で飛んでいる方向を変えることで浮遊感を出している。ここまででナウシカの顔はまだ写っていない。
ここでナウシカが飛んでいる姿勢がわかるカットになります。ジェットノズルが見えることで、文明が滅びたことで全部がなくなっている訳ではないということがわかります。
宮崎監督のメカの凄さは、ジェットノズルの下に付いている小さな突起部分だと言います。これは着陸する時にエンジンフレームが歪まないための着陸脚になっており、全翼機の安定の悪さを解消する補助翼でもあるという、エクスキューズ的なデザインになっている。こういうメカ設定の上手さには舌を巻くという。
次のシーンでは化石になった巨神兵の上をメーヴェの陰が走っていく。これでOPに見せたタペストリーの巨神兵との関係がわかります。巨神兵が破壊した世界、その巨神兵もすでに化石になって埋まっている。その上を女の子が飛んでいて、遥かに時間が経ったとわかります。このシーンでタペストリーで見た世界と時間の因果関係がわかるようになっています。
着陸したナウシカが銃を持って森の中に入っていくというシーンでOPが終わります。この森の中にナウシカが入っていくというのが、この映画全体のラストシーンとの対比になっている。
『風の谷のナウシカ』は30点
高畑勲は『風の谷のナウシカ』に30点という落第点をつけている。高畑監督が許せなかったのは、風の谷が描かれていない。神の救いがテーマになっているというもの。
風の谷の日常
高畑監督は、風の谷というのは農業で成立しているようには見えない。現代社会、文明社会との繋がりがわからない、世界の終りのその先で人間がどのように生きていくべきなのかに答えていない、逃げていると言っています。
風の谷のナウシカは腐海の底に、清らかな世界が出来ているとわかっていながらその世界への移住を拒否している。宮崎監督は、風の谷こそ我々が守るべき共同体である、世界であると言っているのにその価値が描けていない。なぜ病気になって早く死んでしまう風の谷に住み続けるのか?風の谷の人々の生活が描かれていない。
これはアクションを描きすぎたため尺がなくなったのが原因だった。高畑監督にしてみれば、巨神兵との戦いはやってもいいが、やらなくてもいいシーン。それよりは、風の谷の人々の生活を描くべきだと考えていた。例えば、村の人たちはどんな風に料理してご飯を食べているのか、どんな風に寝ているのか、子供達の部屋はどうなっているのか、全く描かれていない。この村の生活に尺を使うべきだというのが高畑監督の批判なのだ。
この指摘の通り、ナウシカではチコの実を食べるシーンくらいで食事のシーンは全くない。この食事のシーンをゆっくり描くというのは、『ルパン三世 カリオストロの城』でのトラウマを持つ宮崎監督には出来なかった。
『風の谷のナウシカ』というのは、東宝のアニメ映画の歴史に残るほどのスベリ映画、重役たちがアニメ映画でこれほど人が入らなかったことは初めてだと激昂し、宮崎監督がしばらく干されていた『カリオストロの城』の次に制作した映画。
なので日常をゆっくり描くなんてことは怖くてできなかったのだ。それをゆっくり描くと高畑監督と一緒に作った『太陽の王子 ホルスの大冒険』になってしまう。ホルスの大冒険は日常を多く描きすぎたために、東映映画史上最低の興行収益を叩き出した。
1年で制作する予定だったホルスの大冒険を高畑監督は、3年かかっても完成させられず制作が中止された時、宮崎監督はこんな事のために戦って来たわけじゃないと泣いたそうです。その時、高畑監督はここまで作ったのだから、そのうち再開するよと平気な顔で言ったという。それを聞いて宮崎監督は、この人はなんなんだ!信じられないにも程がある思ったそうです。
これを機に宮崎監督は、締切がある仕事が来たら絶対に守ろうと決めたそうです。だから宮崎監督は、このままでは間に合わないとわかると締切を守るために壮大なシーンであろうと何であろうと削ってしまうのだとか。
ナウシカにも王蟲と巨神兵が戦うシーンが絵コンテにはあった。庵野秀明は、未だに巨神兵と王蟲が肉弾戦を行うシーンを描きたかったと言うほど悔しがっているらしい。
宮崎監督のスケジュールのために必要なシーンも泣く泣く削るという気持ち、作業が、高畑監督には一切できない。高畑監督にとって『風の谷のナウシカ』というのは、スケジュールを守るために、観客の興味を惹くためにアクションシーンは入れたが、日常生活は削ってしまった作品。不必要な妥協で作品の質を落とした作品。だから30点なんです。
これを聞いた宮崎監督は激怒したが、鈴木敏夫にそんなのわかってて作ったんでしょ。ホルスは客が入らなかったが、妥協して作ったナウシカは大ヒットして客が入って嬉しかったでしょ?と聞かれて泣いてしまったという。妥協したことで得た栄光をあなたは喜んだじゃないかと、後ろからグサっと刺されて泣いたのだ。
マルクス思想
もう一つ高畑監督が指摘したものがある。日常が描けなかったのはスケジュール的な問題でプロデューサー的な問題なのだが、もう1つはやや深刻で内面的な問題になっている。
それは「神の救い」がテーマになってしまっていること。自然を汚した人間がどう生きればいいのか?その答えを宗教に求めてしまった。アニメ版のナウシカでは、腐海や王蟲は勝手に生まれている。大自然の力により生まれた腐海や王蟲が、大地を綺麗にしてくれるという構図で、大自然は神様と言い換えることもできる。
自然と神を入れ替えて言っているだけで、人間は愚かだが神は偉くて救いを用意してくれていると同じように、人間は愚かだが、大自然は凄い、大自然は救いを用意してくれているという話になっているだけ。キリストが人々のために磔にされたように、腐海というのは毒を吸ってきれいな水を作った、同じ構造じゃないかというのが高畑監督の批判なんです。
それに対して宮崎監督や高畑監督が若い頃から信じて実践してきた思想が、共産主義思想、マルクス思想というのは根本的には神の存在を認めないのです。
「ホナこうしまひょ、お父さんの嫁はんが難病に罹りました。治すのに大金が必要ですが、どうしても工面できまへん」
「神様、どうかウチのカカアを助けてください!」
「神に祈ることで治りまっか?」
「いや、それは…」
「そうでしょ!必要なのは神やのうて、カネと医者ですがな」
「つまり、神がおらんちゅうことを前提に物を考えると物事の本質がスッキリ見えてきます。これが唯物論ですわ!」
唯物論がこれであっているのかはわかりませんが、この世界観なんです。抽象的なものを導入せずに、全てを物質的な因果関係のみで説明する。これが2人の世界観であるべきなので、勝手に自然が救いを用意してくれたというのは唯物論ではないのです。
祈っても毒に侵された人々は生き返らないし、腐海もなくならない。必要なのは腐海を焼き払うことというクシャナの考え方が唯物論、それに対してナウシカは何もしなくても結果的に森が助けてくれた、よかったねという宗教論を語っているだけ、というような考え方になります。
さらに高畑監督の批判は続きます。マルクスは資本主義を否定して共産主義を説いたわけではない。資本主義が高度になって発達するほど、その結果として共産主義がやって来ると説いている。
つまり腐海や王蟲というのは、毒された地球に対して大自然が用意したものではなく、人間の手によって生み出されなければならない。高度産業社会の次に大自然が来るのではなく、高度産業社会が進んだ結果として腐海が現れるという具合にしないとマルクス主義にならない。
この批判を受け入れた宮崎監督は、漫画版のナウシカでは腐海の設定を唯物論として仕切りなおしている。実は、腐海も王蟲も高度産業社会の末期に人の手によって生み出されたものであったという設定に変えている。
思想的な部分を否定された宮崎監督は、アニメが終わった後、8年もかけてナウシカをより高い絶望へと持って行っている。それは、腐海も王蟲も人間すらも高度産業社会に作られたものに過ぎなかったというもの。マルクス思想を持ち込んだために、ナウシカはアニメ版よりもさらに高度な絶望に送り込まれる。
これにより、宮崎監督は人間より大きな力が、愚かな人間を救うというアニメを二度と作れなくなった。もののけ姫でもシシ神が死んだ後、森は復活するがそれは、もののけたちが元々住んでいた原生林ではなく、農民が管理する里山にしかならないというような設定になってしまったのです。
人間は神を殺して生きていくしかない。これがエボシ御前、もののけ姫の時のテーマだたのですが、それに対してアシタカが見つけたのが、人は神を殺してしまう。それが人の罪、だから自分たちが殺した神を敬わなくてはいけない。ということまで語れるようになっている。
もののけ姫が作れたのは、ナウシカが真正面から否定されたからで、高畑監督が宮崎監督の師匠として凄いところなんです。この2人は2人で1人。クシャナとナウシカのようなものなんだと思います。