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【京都】奥深い古都の謎と名所!路地を歩いてミステリーを読み解く

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日本人はもちろん世界中から注目される観光スポット「京都」。大通りから一本入った路地裏には知られざる謎と名所が隠されている!

祇園に石切丸?極限まで自然を再現した庭園。血塗られた仏像!幕末志士の隠れ家、ねじりまんぽ、日本一の花街・島原の贅を尽くした京都の料亭など、皆さんの知らない京都をご紹介!

 

 京都路地裏ミステリー

幕末志士の隠れ家

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1200年の歴史を誇る京都。古都ならではの名所が世界中の人を魅了し、今や国内外合わせ年間およそ5300万人が訪れている。しかし、誰もが知る名所から少し目をずらせば迷路のような路地が現れる。

御池通から鴨川のすぐそばの木屋町通を北に向かうと建物の間に門があり、さらに奥へと細い路地が続いている。その突き当たりには立派な屋敷のような建物が…。家の中には鯉が泳ぎ、廊下の一部を開けると隠し階段が現れた。一体この家は何なのか?

実はこの家には、倒幕派の筆頭だった長州藩の桂小五郎が住んでいた。当時、桂は新選組などに命を狙われていた。そんな彼を匿っていたのが、のちに妻となる芸子・幾松だった。実はこの家、長州藩が桂の身を守るために用意した建物で、桂にはこの路地裏で人目につきにくい路地の奥の家が必要だったのだ。

あの隠し階段は、鴨川のほとりに脱出できるように作られていて、さらに2人が過ごした部屋の天井は750キロ相当の石が載せられる吊り天井になっており、襲撃された時に返り討ちにするため天井がいつでも落とせるようになっている。

今も幕末の動乱を語り続けるこの建物は現在、料理旅館「幾松」として営業。食事だけでも楽しめることができ、利用客は館内の見学が可能となっている。

 祇園・梅小路エリアの路地

錦市場ができた訳

古くから京の台所として知られる錦市場。繁華街にあることから今や多くの観光客が押し寄せている。なぜ錦市場がこの位置にできたのか?読み解く鍵は、市場の反対側の路地の奥にある。

錦市場の東側にある路地。その奥にあるのは、およそ400年の歴史がある錦天満宮。境内には、「錦の水」と呼ばれる湧水がある。この地には元々、水温が常に17℃という湧水があった。それは魚や野菜を洗うのはもちろん、食材を保存にも適していたため、この水の周りに市場ができたのだ。

井伊美術館

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観光客で賑わう花見小路を抜け路地を東に、さらに細い路地を右に曲がる。そこには彦根藩・井伊家の末裔が個人で運営している井伊美術館がある。貴重な物が多いため、建物は防犯上の意味で厳重な造りになっている。

この美術館は、刀剣や甲冑の鑑定を請け負っていて、全国から貴重な物が届き展示や保管を依頼されている。井伊直政の物と言われる甲冑や刀剣をキャラクターにした人気のゲームに登場する名刀「石切丸」の兄弟太刀が展示されている。

角屋もてなし文化美術館

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京都水族館などの人気スポットがある梅小路界隈。そのすぐそばの七条通から北に伸びる1本の細い路地がある。その奥には謎の門が立っている。門をくぐりしばらく行くと角屋という揚屋で、今で言う料亭みたいな建物がある。

角屋は江戸の初期に建てられたもので、当時は民間経営最大の宴会場だったという。この辺りは江戸時代、島原と呼ばれた場所で京都最大の花街だった。明治になってから客の足が遠のき衰退した島原もかつては京都一の歓楽街で、角屋のような揚屋がおよそ20軒も建ち並んでいたという。その入口があの大門だったのだ。

贅を尽くした当時の料亭とは一体どんなものだったのか?入口には約100畳の台所があり、お膳は最高100人前まで対応できたという。そして客間では、西郷隆盛や坂本龍馬、新選組などが宴に興じた。

この角屋がいかに贅を尽したものであるのかは、壁を見ればわかるという。京壁と呼ばれるもので、江戸時代に京都で発展した土壁。耐久性はもちろん、自然の土の色で見た目も美しく仕上げるのが特徴。職人の技が結集している。黄色の土の固め光沢が出るまで磨き上げた黄金の壁や、浅葱色の壁を自然の土の色だけで仕上げている壁などがある。

 南禅寺エリアの路地

山県有朋の別荘・無鄰菴

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京都を代表する観光地の1つ南禅寺。その界隈の路地の奥にも謎めいた名所が隠されている。京都市動物園の南側、観光地にも関わらず人通りのない1本の細い路地がある。その奥には、山県有朋の別荘・無鄰菴(むりあん)が建っている。

なぜ山県有朋は、ここに別荘を建てたのか?そこには京都にとって大きな意味が隠されている。元長州藩士で、2度も総理大臣を務めた山県有朋。彼は1896年、ここ「無鄰菴」を別荘として造営させた。

そんな無鄰菴の見所は庭。この庭園は、山県有朋の指示に基づき作庭されたもの。それまでにない、自然を再現する斬新な庭で近代日本庭園の傑作と言われている。ではなぜ、彼はここにこんな庭を作ったのだろうか?それを読み解く鍵は、この庭を流れる水にある。

実はこの庭を流れる水は、琵琶湖疏水から引いているのだ。明治時代に作られた琵琶湖疏水は、琵琶湖から京都に水をもたらし京都の産業を復活させようという大公共事業だった。この疏水造りに伴い、水力発電所を設け工場を誘致。産業を活性化し、またその電気で市電が走るようになり、京都は活力を取り戻したのだ。

山県有朋は、その第1疎水が完成した時の総理大臣。彼はこの南禅寺界隈を発展させようと自らが最初に別荘を築き、疎水の水を引き入れたと言われている。この庭の凄いのは、水の音響効果。この庭には、瀬落ちという庭園技術が使われている。川の幅や段差を意図的に変えることで、どこにいても水の音が聞こえ、立つ場所によって音が変化する。

ねじりまんぽ

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南禅寺の近くに世にも奇妙な路地がある。ねじりまんぽと呼ばれるトンネルで、レンガをわざとねじれるように積んでいる。誰もが違和感を覚える不思議なトンネル。壁のレンガは螺旋状に積まれていて、まるで渦を巻いているかのように見える。なぜこのような構造で建てられたのか、その謎はトンネルの上を見ればわかる。

そこにはインクラインと呼ばれる昔、荷物を運んだ船を運ぶ鉄道が通っていた。インクラインとは、明治から昭和初期まで使用された傾斜鉄道のことで、トンネルの耐久性を上げるため、ねじれ構造にしたのだ。

ちなみに「まんぽ」とは、鉄道の下を通るトンネルのことで、そこから「ねじりまんぽ」と呼ばれるようになった。

 即成院

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東山を通る東大路通からさらに東に伸びる道がある。その道をしばらく進むと皇室とゆかりが深く「御寺」とも呼ばれる泉涌寺の総門にたどり着く。この泉涌寺の参道にはたくさんのお寺があり、様々な謎が隠されている。

即成院もそのお寺の1つだ。今から900年以上前に創建されたこのお寺、門に掲げられた極楽浄土とは何を意味するのか?それは本堂にいる仏さまが語っている。創建当時に作られたという阿弥陀如来と二十五菩薩。なぜこれだけの仏像が一緒に安置されているのか?

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読み解く鍵は菩薩が持っている楽器。実はこれ、人が死ぬ時、極楽から阿弥陀と菩薩が音楽を奏でながら迎えに来る「来迎」の様子を表したもの。その世界観を仏像で立体的に表現しているのは、ここだけと言われている。

つまり、この空間が極楽浄土で現世にいながらその世界に入ることができるのだ。この寺にはもう1つ秘密がある。この仏像を作らせたのは、平等院を建てた藤原頼通の息子・橘俊綱。宇治にある平等院鳳凰堂は、極楽浄土を現世に再現したもので屋根の鳳凰がシンボルとなっている。

息子の俊綱は、父を同じように極楽の世界を表現するためこの仏像を作らせたのだ。そして即成院の山門の屋根の上にも鳳凰が!しかも平等院がある方向を向いている。

血の跡に隠されたミステリー

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参道の門をくぐり奥へ進んでいくと、鎌倉時代に創建された戒光寺がある。ここのご本尊にはある秘密が隠されている。台座から光背部まで入れると高さ10メートルにもなる釈迦如来像だ。

鎌倉時代に作られた京都最大級の丈六釈迦如来像。その優美な姿から仏画から抜け出してきた美しい仏様とも言われている。しかし、よく見ると顎の下にシミのようなものが…これは血の跡と言われている。

江戸時代に第108代天皇として即位した後水尾天皇。まだ皇太子だった時に、皇位争いに巻き込まれ寝首をかかれてしまった。ところが、なぜか事なきを得た。するとそれを機に釈迦如来像の首に、それまでなかったシミがついていることが判明。このことから釈迦如来像は皇太子の身代わりになり、シミはその時に流れた血の跡とされるようになったのだ。

実はこの仏様は、昔から首から上の病気を治してくれる「身代わりのお釈迦様」と呼ばれており、みんなから愛されている。